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おじいちゃん



 「みんなのおかげでいい人生だった」
 昨年(2023年)3月25日、この家を後にするとき最後に言った言葉だ。二日後おじいちゃんはこの世を去った。本当はあと数ヶ月、少なくとも数週間は緩和ケアハウスで穏やかな時を過ごすはずだったのに−。

 その4ヶ月前におじいちゃんはコロナに罹った。軽症だが年齢を考慮して、総合病院に入院することとなった。そこで肺がんが見つかった。ドクターは私たち(息子夫婦)にコロナではなく肺がんについて説明するため、病院の上層階から玄関へと降りてきた。
「2センチです。ご高齢なので進行はそこまで早くはないでしょう。ただ、痛みが出だしたら早いです。コロナの治療が終わったら近くの病院で検査をしてください。」
 93歳、朝晩新聞を隅々まで読み、自分で食べる分の野菜を育て、自転車でコンビニに行き、洗濯をする。家計や健康状態を毎日欠かさず記録する。これから先自由を謳歌し、悠悠自適に暮らしていくと思われていた矢先のことだった。

 遡ること2年、2020年2月、腸の癒着を絶食で治そうとおばあちゃんは二週間近く何も食べずに布団の中にいた。 呼びかけても通院を促しても、断固として受け付けない。そしてその顔はとうとう土気色を帯びてきた。このままただ死に向かっていってしまうのか?病院へ連れて行くこともできないのか?絶望を言葉にする術が見つからず、気づけば自室で大泣きしていた。次女がその様子に驚き、ことの重大さに気づいて手際よく万端整理してくれた。おばあちゃんは約ひと月の入院の後、復活を遂げた。しかしその代償はとても大きなものであった。排尿のコントロールを失い、認知機能が低下していたのだ。
 それから間も無くおばあちゃんは家の中を徘徊し、昼夜逆転の生活をするようになった。ゆっくりと、だけど確実に人は老いていく。
 私は昼も夜も眠れなくなって、翌年4月おばあちゃんは特養に入居した。

 68年間連れ添った夫の両親はどちらかと言えば穏やかで、言葉には出さないけれどお互いを信頼し尊重し合っていた。でもコロナ禍は人類に否が応でも個という内に向かうことを強いて、見えないほど小さかった綻びが物心両面において老夫婦の関係を引き裂くことになった。おばあちゃんは70年近く心の奥底に沈め、おそらく未来永劫そのままにしておくはずだった思いの数々を語り始めた。おじいちゃんはそんなことはなかったと言いながら、おばあちゃんが人知れず行っていたことなどを「今更昔のことを言っても仕方がない」と許していた。

 ケアハウスに行くおよそ二週間前の3月11日、デイサービスへの送迎車が到着した。
 「今日は行きたくないんだよなあ」長い間通っていて初めて、おじいちゃんがそんな言葉を発した。
 「そう?でも気分転換に行ってきたら?」
 「そうか?じゃあ行ってくるか」
 実際そのやり取りの後、体の痛みはあっという間におじいちゃんから日常を奪いとり、4月中旬に予定していたケアハウスへの入居が二週間ほど早まった。
 出かける直前、やっと起き上がったおじいちゃんをビデオカメラに収めた。そこには孫たち一人ひとりにメッセージを伝え、「いい人生だった」と背中をさすられながら力強く話す姿が残されている。

 入居した翌日、長女の家族がおじいちゃんを見舞っている最中に私もハウスに到着した。一度も使っているのを見たことがないのに、「補聴器を持ってきてくれと言っている」と看護師から電話がかかってきたのだ。
 曽孫達がはしゃぎ回っている傍らで「なんでこんなになっちゃったのかなあ」と繰り返し何度も呟いていた。そしてそれがおじいちゃんが話す、本当に最後の言葉となり、翌朝早くに天国へと旅立った。ハウスに来て3日目であった。

 最後までおばあちゃんを幸せにすることと私たち家族に迷惑を掛けないことを強く願い、それをやり遂げたおじいちゃんだった。 
 そんな姿を見て私は、そして私たちはどうやって生きていこうかと考えさせられている。考えながら怒ったり笑ったり、たまに泣いたりして毎日を生きている。お線香をあげておはよう、今日も見守ってくれてありがとうと話しかけている。

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