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ありのままの姿を愛してと言う平成の病によるメタ認知の欠如。

 本日、職場にて上司から「さとくらくん、今日って2022年だっけ?」と突然聞かれました。
「そうですよ、今は2022年ですよ」
「ありがと!」
 え? なに、今タイムリープしてきたの? 
 これから未来を変えるの?

 更に数時間後、休憩時間に休憩室でスマホを触っていると、「そこにいるの、さとくらさんですよね?」と少し離れたところで声をかけられました。
 以前いた部署の後輩でした。
「うん、さとくらさんですよ。●●さんですよね?」
「あ、はい。良かったぁ、さとくらさんだぁ」
 という会話を交わしました。
 え? なに? コールドスリープの100年の眠りからでも目覚めたばかりなの? キャプテンアメリカなの?

 いやまぁ確かに今、僕の所属する部署は別フロアで仕事をしていて、二ヶ月近く休憩室以外では他部署の人と顔を合わせない生活をしているけれども、え、なに僕は忘れ去られているの?

 最近、SFマガジン2022年4月号を買ったせいか、脳内が勝手に普通の会話をSF化しているのか、自粛期間もいよいよ極まって来ると、人はSF的会話を交わし始めているのか。
 何にしても、今後の日常が少々楽しみになる会話でした。

 さて、そんな本日、仕事終わりにスマホを開くと、友人からLINEが届いていました。
 友人とは去年の秋ごろに飲みに行く約束をしていたのですが、当日にLINEを送っても既読はつかず、ぶちられました。
 なんというか、昔からそういうところあったよねって言う気持ちしかなく、放っておいたんです。
 三つか四つは年上なんですけどね。

 で、今年入っても既読つかないから、あけおめメールも送らずにいたんですが、3月が彼の誕生日だったのでおめでとうのLINEだけ送ったんです。
 すると、その返信が本日あったんです。

 そこは返信あるんだ。
 ホント、昔からそういうところあるよねと思いつつ、「元気ー?」とか、「もう我々出会って十三年くらい経ってんだぜ」とか、ってやりとりをした訳です。

 そんな中で、ふと浮かんだのは文春オンラインの「「会いたくて震える」活動期間は約10年…西野カナ“着うたの女王”の歌詞が平成後期に支持されたワケ」という記事でした。

 この記事の中に以下のような文章があります。

 平成前期は「自分探し」に出かける人が多かったが、自分探しはゴールがない。探し疲れが起こるのもある意味当然。次第に今の自分の価値観と向き合うように流れが変わり、「アナと雪の女王」(2014年)は、そこにズバッとハマったのだと思う。
 
 ありのままの姿を見せて、それを受け入れてくれる人こそ運命。でも、そのまま愛してもらうためには、プロフィールの整理や自己分析が必要だ。しかもありのままの自分をさらけ出すのって勇気がいる……。そんな迷いが今度は出てくる。

 この記事はあくまでタイトルにある通り、西野カナが平成の女の子たちに如何に受け入れられ、どのような立ち位置になっていったか、というものでした。
 ただ、この「平成前期は「自分探し」」する人が多くて、それに疲れて、「ありのままの姿を見せて、それを受け入れてくれる人こそ運命」だって思い始める。
 このプロセスを僕はとても身近に見てきた気がするんです。

 というのも、今回LINEを返信してきてくれた友人です。彼と出会ったのは小説を学べる学校で、そこで出会った人たちは小説家になろうとしていました。
 そんな彼らが求めていたものを十三年経って振り返って考えてみると、まさに「ありのままの」自分が書いた小説を「受け入れてくれる人(評価してくれる人)」を探していたように思います。

 自分は今のままで完璧だ、と肯定して欲しい、そういう欲望。もちろん、彼らは授業にも出ますし、努力もします。
 ただ、学ぶというプロセスの多くが、一旦主観を排してフラットに吸収することが必要になるのですが、彼らはその自らの主観を捨てることができなかったように思います。

 主観を捨てられないと何を学び損ねるんでしょうか。
 これに関して分かり易い例として、島田紳助のX軸Y軸の話が適切ですので、紹介させてください。
 
 X軸は自分の能力や才能、Y軸は世の中の流れ、というものです。
 自分の能力や才能を理解して、世の流れを研究し、XとYの合致するところを狙うことで成功する、というもの。

 西野カナの記事で言うところの「ありのままの姿を見せて、それを受け入れてくれる人こそ運命。」を求める人ほど、根本のところの自分の能力や才能を理解できていない印象があります。
 なぜなら、「そのまま愛してもらうためには、プロフィールの整理や自己分析が」結局は必要になってくるからです。

 自己分析をする為には、自分を他人のように見るメタ認知が必要になってくるのですが、この能力が友人と出会った小説を学べる学校の生徒たちは弱かった気がします。
 けれど、そんな彼らはY軸にあたる世の流れには敏感だったように思います。

 ただ、どれだけY軸を極めても、自己分析の力がないと、「俺/私が面白くないと思ったから、これは良くない作品です」と平気で言えちゃったりするんですよね。

 いや、面白くないと思ったのは良いけど、どうして俺/私はこの作品を面白く感じなかったのか、という自己分析をしようよ!
 そこから考えないと学べないことって絶対あるよ。

 と今となっては思う次第です。
 そういう意味で自分が嫌いな作品からの方が、学べることって多いんですよね。

 最後に佐々木敦がツイッターが似たような指摘をされていたので、引用して終わりたいと思います。

ジャンル小説の批評の多くは、そのジャンルの他は思想哲学しか参照系を持っていないことが多い。だがまず参照すべきはそのジャンル以外の小説ではないのか。特に評価の定まった古典や名作ではない同時代の他ジャンル小説について、ジャンル小説の批評の書き手は驚くほど無関心、ないし無知だと思う。

 なるほどなぁ。
 佐々木敦は批評に関して言及していますが、優れた小説を書かれる人ほど、自分が属していないジャンルの小説をよく読んでいる印象もあります。

 という訳で、僕は同時代の今まで触れて来なかったジャンル小説に関しても手を伸ばしてみようと思っている次第です。

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。