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「好きでもだめなものはだめ」な世界で上手い文章を書く方法。

 小説を書く時に浮かぶ言葉があります。
 まずは、そちらを紹介させてください。
 川上弘美の「ハヅキさんのこと」の中にある「だめなものは」の一文です。

「だめなものはだめなんですね」しまいに、わたしもヤマシタさんと口をそろえて言っていた。ずいぶんと好きな詩人だったはずなのに、好きでもだめなものはだめなのかもしれないという気分に、支配されていた。
 ものを書く人間は、このように常に読者にさばかれるべき存在なのだ。

 この一編は七ページしかない掌編なのですが、その中で「だめ」という容赦のない言葉が20回以上繰り返されます。
 だめなものはだめ。
 それは一つの真理なのでしょう。

 例えば、だめでも良いから書けばいいと言う考え方もできると思います。だめなものを積み重ねていくことで、だめではないものが生まれる可能性は充分にあります。小説を書く為のハウツー本を読むと必ず書かれているのが、結末まで書くです。
 物語を終わらせる、という技術を育む為には当然それが必要です。そして、誰かに読んでもらうにしても結末のない物語では、もらえる感想に限りがあります。

 小説を書き始めた人間が、まずやらないといけないのは物語を最後まで書くことでしょう。それは間違いありません。
 とは言え、その小説を出版させる、あるいは多くの人に読んでもらうとなると、話は異なってきます。
 読者は書き手の苦労や葛藤を汲み取って、小説を読んでくれる訳ではありません。書いてあるものが、すべてです。
 故に、「だめなものはだめ」ということになります。

 では、だめではないものを書くにはどうすれば良いのでしょうか?

 橋本治が「デビッド100コラム」の中で「こうすれば君も文章が上手になる」というエッセイを書いています。
 冒頭をまずは引用させてください。

 なにも言いたいことがない時に文章を書こうなどと思わないことである。そうすればおのずと、「どうすればこれをもっと分かりやすく的確に、そして自分自身に忠実でありながら恩きせがましくないような文章にすることが出来るだろうか?」と考えることが可能になって、努力の余地も出て来る。

 なるほど、なるほど。
 では、少し中略して続きを引用させていただきます。

 次に、「今の自分にはそんなにうまく言えるだけの能力はまだないのだ」と思うことである。不必要なコンプレックスを見つめ続けると、いびつなまんま型にはまってしまうだけである。謙虚は時として、適切という名の簡素なる美をもたらす。気取っている人間ほど、文章の型とかコツとかというものの幻想を見てしまうものである。

 謙虚は時として、適切という名の簡素なる美をもたらす。
 ってカッコイイなぁ。
 それでは、最後の一文を引用いたします。

 文章を書きたかったら、それ以前に“教養”を身につけるべきだ。それからでも遅くはないし、それからでなければロクなことにはならない。人間だって、醗酵する為の時間というのは、必要なものである。

 ちなみに、橋本治の「デビッド100コラム」が出版されたのは1985年とあります。
 その頃と比べて教養という意味合いは変わってきているとは思いますが、人間にも醗酵する為の時間が必要であることは間違いないでしょう。

 だめではないものを書く為に必要なのは教養。
 と書いてしまうと、根も葉もなくなってしまいますが、これもまた一つの真理なようにも思います。



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