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結婚は「こわれた茶碗」だと言うけれど、良いもの。

 結婚が「こわれた茶碗」だと丸谷才一が書いたのは一九七二年に発表した「たった一人の反乱」だった。
 ちなみに、その際の文章は以下である。

この制度にいろいろ具合の悪いところがあるのは、たいていの人が気がついているでしょう。でも、差し当たって代案がない。そこでやむを得ずつづけている。これだって、こわれた茶碗をついで注意ぶかく使っているようなものでしょう。

 令和となった今も結婚という制度以外に「差し当たって代案がない」ように僕は感じる。家族になる、作る場合は「いろいろ具合の悪いところがある」けれど、結婚する他ないのだろう。

 ある女性作家が昔、雑誌の対談で結婚は男性としかできないことが絶望という旨の発言をしていた。そんな女性作家も結婚していて、それをまとめたエッセイを出版していた。内容は夫に対する憎しみと文句で彩られていた。
 なら、結婚しなきゃいいのにと思うと同時に、それしか選べる制度がないと言う話なのかも知れない。

 僕は結婚をしたかった。その結果、向いてないと分かれば一人で生きていく。とりあえず一回はしてみる。そういう風に考えていた。
 相手があることだし、したいからできるものでもない。
 ただ、相手さえいて婚姻届の承認の欄を書いてくれる人を見繕えば、結婚はできるという事実はある。年収も見た目も技能も関係ない。
 婚姻届さえ出してしまえば「法律上で認められる男女の夫婦関係」となる。
 シンプルだ。

 例えば、年収がどれだけないとダメだとか、車の免許を持っていないといけないとか、料理ならこれが作れないとダメとか、そういう条件が一切ない。僕にとっては大変有り難い制度だった。
 とはいえ、この婚姻届を出すまでにお互いの両親に認めてもらうか、一緒に住むなら新居はどうするか、結婚式はするのか、という膨大な選択肢は現れる。あくまで選択肢であって、無視しても良い。

 僕の周りで三〇歳になる前に結婚したかったから、両親に黙って婚姻届を出したという人がいる。そして、その後、祖父の葬式の際に父にバレて怒られたのだ、という話で笑いをとっていた。
 結婚のシンプルプランという感じだろうか。
 であるとすれば、僕が体験した結婚はカスタムプランだった。お互いの両親との食事会をして、結婚式の式場を選んで、結婚指輪を作りに行って、両家顔合わをした。していないのは結納(話は出てた)と新婚旅行と引っ越しだ。
 他にもあるのかも知れないけれど、今は浮かばない。

 結婚した時、妻と「自分たちだけのものじゃなかったね」と笑いあった。
 この具合の悪い制度は家族と家族を繋ぎ、自分の背景にあるものを実感させる。普通の生活をしていたなら気づかなかった両親との関係、親戚との距離感や友達の反応。そういうものがお互い、浮き彫りになった。
 この先は分からないが、僕も妻も家族を含む周囲の人間関係は非常に良好なものだった。

 結婚は「こわれた茶碗」だと言う。いつか、「こわれた」部分によって、こぼれ落ちるものがあるのかも知れない。けど、今のところは上手くいっている。
 ひとまず、その結果で僕は胸を張って言いたい。
 結婚って良いものですね!

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