見出し画像

【小説】あの海に落ちた月に触れる①

十四歳

 彼女が十人いる男が最初に連絡をするのは十番目の女だ。

 同級生の男子がそういう話題で盛り上がっていた。女子のいない体育の着がえの最中だった。僕はとくに口を挟まず着がえを続けていた。

「絶対、十番目の女だって! だって、そいつに嫌われても、他に九人の彼女がいんだぞ? なら気を使う必要はないじゃん。それって、やりたい放題ってことだぜ。最高だろ? なぁミヤ?」
 話を振られたミヤは「そーかぁ?」と言いながら、一瞬だけ僕を見たのが分かった。
 僕は気付かないふりをした。

 その日の放課後、屋上に通じる階段の最後の踊り場で待っていたミヤは不満げな表情をしていた。理由は体育の着がえ中の話題以外になかった。
「どう思うよ、行人?」
「そうだなぁ」
「俺だったら、十人の彼女がいたとしても、一番好きな子に最初に連絡するぞ。だって、一番好きな子なんだから」
 理由はそれだけで十分だろ? という顔をするミヤに僕も概ね同意するつもりだった。が、本心を言えば、僕はよく分からなかった。

「もちろん、僕も一番好きな子と一緒にいたいけどさ」
 と僕は言った。「その結果、喧嘩するかも知れないし、一番好きだからこそ、しんどいなって思う瞬間があるかも知れないよ」
「いや、だからさ。その喧嘩とか、しんどいってことを含めて一緒にいるのが恋愛なんじゃねーの?」
「そうなのかなぁ」
「クラスの連中は恋愛ってものを分かってねーよ」

 多分、僕も恋愛ってものを分かっていない。
「でもさ、僕たちはまだ十四歳で、社会的にも肉体的にも未熟だろ? 一番好きな女の子が、これからもずっと一番とは限らないだろ。一緒に居たいと願えば、ずっと居られるとも限らないし」
「だからこそ、だろ」
 とミヤはすかさず言った。「一緒にずっと居られないかも知れないから、今一緒に居んだよ」
「その後に、辛くて苦しい結果があるとしても?」
「生きていればさ、辛くて苦しいことは避けられないじゃん。だからこそさ、彼女を十人作る暇なんてないし、十番目の女の子に連絡せずに、一番好きな子と長く一緒にいるべきなんだよ」
「その通りだと思う」

 頷きながら、僕はまったく逆のことを考えていた。
 一緒に居ないからこそ、相手を大切に想うという瞬間が世の中にはある。
 中学二年の僕に、その具体的な例を出すことはできないけれど、それはおそらく大きく間違った結論ではないように思った。


十五歳

 中学三年の夏休みが明けて、三日が経っても秋穂は学校に登校してこなかった。
 担任は三日続けて原因は風邪だと言った。
 夏風邪は長引く。確かに、その通りだ。

 けれど、高校受験が目前となったこの夏に秋穂が休む、というのが、どうにも納得できなかった。あの秋穂ならば風邪を引こうと登校してくるだろうし、授業に参加できないまでも保健室で休むなどしそうだ。
 誰よりも内申点を秋穂は気にする質であることを僕は知っていた。
 気になると、もう駄目だった。
 放課後に、僕は三日分のノートとコンビニで買ったチョコレートを手土産に秋穂の家を訪ねた。

 西野、と表札のかかった秋穂の家は、周囲の家よりも大きくて立派な門構えだ。秋穂のお父さんが地方雑誌で度々取り上げられるリフォーム会社の社長の為、秋穂はいわゆる社長令嬢だった。
 それに比べて僕は平々凡々な家庭の次男でしかなかった。
 僕たちの関係は対等でないのかも知れないが、その事実によって気まずくなったことはなかった。
 チャイムを鳴らすと秋穂のお母さんが迎えてくれた。

「あぁ、行人くん。この前のお土産、ありがとうね。美味しかったわ」
「良かったです」

 僕は夏休みの間、親戚の家でお世話になっていた。
 西野家は僕の住む家の近所なこともあって、帰ってきた八月三十一日にお土産を持って挨拶に行った。半分以上、秋穂に会うつもりだったのだが、彼女は不在だった。
 その為、僕は夏休みの間と学校が始まっての三日間を含めた一ヶ月以上、秋穂に会っていなかった。

「秋穂よね?」
「はい」
 と僕は頷き、「風邪だって聞いて。三日分のノートの写しと、チョコレートです」とビニール袋を秋穂のお母さんに差し出した。

「ありがとうね。でも、本人に渡してあげて」
「風邪なんですよね?」
 秋穂のお母さんが苦笑いを浮かべた。
「ずる休みよ。あがって行きなさい」
 分かりました、と言いつつ、僕の違和感は膨れ上がった。
 秋穂がずる休み? この時期に?

 秋穂のお母さんの後ろについて、彼女の二階の部屋まで進んだ。
 見慣れた廊下と階段。けれど、一ヶ月ぶりに見ると懐かしい扉。少しだけ動きがぎこちなかった。
 秋穂のお母さんが彼女の部屋の扉を叩き
「行人くんが来たわよ」
 と言った。扉の向こうから、秋穂の曖昧な返事があった。
 一瞬だけ、秋穂のお母さんが僕を見た。
 ん?
 すぐ秋穂のお母さんは視線を戻し、扉を開けた。

 部屋に入って、秋穂のお母さんの視線の理由が分かったような気がした。
 真面目で、礼儀正しく、内申点を気にする秋穂は、テレビに向かってゲームをしていた。
 懐かしいゲームだった。
 僕と秋穂が小学生くらいの頃に、一緒になってやっていたものだ。今はシリーズが幾つも出ているけれど、秋穂がプレイしているのは一番最初のだった。

「飲み物を持ってくるわね」
 と言って秋穂のお母さんが、部屋を出て行ったので僕は所在無い気持ちで立ち尽くした。突然の来客である僕を秋穂は一度も見ようとしなかった。

 仕方なく「休んでいる間のノート、持ってきた」と僕は事実だけを口にした。
「うん」
 秋穂はやはりテレビ画面に視線を向けたままで言った。
「ねぇ行人。私に言うことがあるんじゃない?」

 決して怒ったような言い方ではなかった。
 夏休みの初日に僕は親戚の家へ行くことになっていた。朝方に出発する際に、秋穂はわざわざ僕の家の前まで来て「行ってらっしゃい」と言ってくれた。
 律儀な女の子だ。僕も「行ってきます」と答えた。
 だから、今僕が言うべきは一つだった。

「ただいま」
「おかえり。こっち座りなよ」
 うん、と頷き、僕は秋穂の隣に座る。通学用のバッグを後ろに置き、テレビ画面に視線を向けた。
「お土産、どうだった?」
「美味しかったよ」
 良かった、と笑ってから「どうして秋穂は学校を休んでゲームをしてんの?」と言った。

 丁度、秋穂のお母さんがお盆に乗った氷の入ったグラスを二つとペットボトルのオレンジジュースを持ってきた。立ち上がって僕が受け取った。
 お母さんは、「ごゆっくり」と言うと秋穂の部屋を出て行った。
 僕はグラスにオレンジジュースを注いで、秋穂の横に置いた。
「ありがと」
 と秋穂は言ったが、グラスに手は伸ばさなかった。僕は秋穂の横に座り直して、冷たいオレンジジュースを飲んだ。
 しばらく、テレビ画面から流れるゲームのBGMだけが部屋を満たしていた。それはそれで心地いい空間だな、などと思った頃に秋穂が口を開いた。

「なんかね、よく分からなくなっちゃったんだ。いろんなことが」
 そっか、と僕は言った。秋穂の横顔を見た。整った顔だと思う。とびっきりの美人という訳ではないけれど、時々見せる表情や仕草が魅力的なのは疑いの余地はなかった。
「ゲームをしたら、何か分かるのかな?」
「さぁ。でも、はじめちゃったから。最後までやってみる」
「そっか」

 僕はテレビ画面に視線を戻し、ゲームの進行をぼんやり眺めた。グラスの中の氷が溶けて、残り少ないオレンジジュースを薄くさせた頃に僕は言った。
「明日も学校、休むの?」
「多分」
「そっか。じゃあ、明日も来ても良い?」
「良いよ」
 僕は立ち上り、通学用のバッグに手を伸ばした。

「ねぇ、行人」
「なに?」
「エッチしたことある?」

 突然の問いだった。
 長いこと秋穂と一緒にいるけれど、エッチと言ったのはこれが初めてだった。

「ないよ」
「じゃあ、エッチしたいって思ったこと、ある?」
「あるよ」
 中学三年の男子がエッチなことについて思わない日がある訳ないじゃないか。
 そう続けようと思ったけれど、結局はやめた。

 ○

 秋穂の家を出ても日は落ち切っていなかった。
 腕時計に目をやると、十七時二十一分だった。
 このまま家に帰るつもりになれず、僕は自宅を通り過ぎて、しばらく歩きつづけた。辿り着いたのは空き地だった。
 真ん中辺りは地面が見えているが、それ以外は雑草が好き放題に生えていた。奥に三本の立派な木があって、入って左の木に人影があった。

 僕の通っている中学の制服をきた女子生徒だった。
 空き地に入ると、彼女は僕に気付いたようで、手をあげた。その手には火の点いた煙草があった。

「やぁ、行人くん。久しぶりじゃないか?」
 僕は真ん中の木の根元にバッグを置いた。ここが僕の席だった。とくに主張した訳ではないが、自然とそうなった。

「久しぶり、陽子」
 煙草の灰を携帯灰皿に落とした陽子は教室では決して見せない皮肉げな笑みを浮かべた。
「なにか用かい?」
「相変わらず中二病っぽい喋り方だなぁ」
「そういうのが好きなんだろう?」
「まぁね。今度、教室でもその喋り方をやってよ」
「無理だね。教室でのぼくと今のぼくは違うからね」

 陽子はクラスメイトだ。
 一見、真面目で大人しげな陽子が煙草を吸い、こんな喋り方だと知ったのは梅雨真っただ中の六月だった。
 驚きのキャパを超えた僕は、普段なら見ないフリをする場面で何故か声をかけた。興味が勝ったのだと思う。

 陽子は教室での自分を取り繕ったりしなかった。
 人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、煙草を吸った。そんな陽子に対して僕はへらへら笑って話しかけた。
 僕のとくに中身のない会話を陽子は邪険にすることなく応えてくれた。
 そういう日が六月から時々あった。

「あのさ、陽子。ちょっとお願いがあるんだけど、良いかな?」
「来て早々図々しいね。良いかどうかは分からないけれど、言ってごらんよ」
「夏休みの宿題を手伝ってくんない?」
「ん? なんだって?」
「宿題を手伝ってください、お願いします」

 それは僕にとって、そこそこ切実な問題だった。陽子は呆れたようなため息をもらした。
「あのだね、行人くん。夏休みの宿題は、登校初日に提出するものであって、ぼくの手元に現在ないわけだけれど?」
「写させてもらえたら、それが一番なんだけど。ないものは、仕方ないから手伝ってください」

 顔を上げると、陽子は口もとを吊らせて笑った。
「君は、この夏なにをしていたんだい?」
 僕は用意していた話を口にした。

「八月一日に、宇宙人の少女と知り合ったんだ。すげぇ美人でさ、胸も大きくて、くびれもしまっていたんだ。もう一目見て、大好きになっちゃったんだよね。で、その少女と宇宙に行って、いろんな惑星を巡ってさ、宇宙崩壊の危機を救って行ったんだよ。で、全部、終わったのが八月三十一日だったんだ。宇宙人の少女も、自分の惑星に帰るって言うんで、ちょっと感動的な別れをしてさ。良い夏休みだった訳よ。でも、さすがに宇宙を救いながら夏休みの宿題はできなかったんだよね」

 もちろん、嘘だった。
 ただ陽子の教室では普通の口調なのに、外に出ると下手な男口調になる彼女に対して、僕は何かしらの嘘をつきたかった。
 何の意味もない嘘。
 そういう罪のない嘘が僕は好きだった。

 陽子は新しい煙草を咥え、ライターで火を点けた。煙が空中に漂う。
「ぼくに本気で、そんなことを言っているのなら、敬意に値するよ。それで、その宇宙人の少女とはキスくらいはしたのかい?」
「まぁその辺は想像に任せるよ」
「ほぉ」
「プライベートなことだからね」
「なるほど」
 陽子は煙草の灰を携帯灰皿に落とした。「まぁ、良いだろう。君の宿題を手伝っても良い」

 意外だった。
 正直、断られると思っていた。
「その代わり、ぼくのお願いを聞いてもらうよ」
 陽子がまっすぐ僕を見た。真剣な表情に対して僕はへらへら笑いを深めた。「なに? エロいこと」
「してほしいのかい?」
 よく分からなかった。

 にやっと陽子が笑った。
「まぁ安心して良い。エロいことじゃない」
「じゃあ、なに?」
「それは行人くんの宿題が終わってから言うよ」

 

つづく。

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。