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愛を正しく学ぶための方法を考える。

 人生をゲームとして考える。そうすると、まず自分のステータスを見て体力が低いなとか、コミュ力はそこそこ上がってきているなとか認識した上で、じゃあどうしようと行動していくことができる。
 ゲームだと考えればレベルを上げて行くのは当然で、そうして出来ることは増えていく。もちろん、人生はゲームではない。
 ただ、ゲームとして捕らえた方が、しんどいことがあってもこれはレベル上げに必要な経験値集めだと考えられるし、何か失敗をしてもボスを一回で倒せないのは当然だと割り切ることができる。
 人生はゲームとして考えた方が色々お得だと思う。

 日々生活をしていると、これが本当に自分の人生に役立つのだろうかと考えることがある。例えば、役に立つとは思えない学校の勉強。上手くいかなかった恋愛。厄介な先輩や後輩との関わり。
 損得で考えると損で、この先の人生での役立て方も分からない。
 そういう時に僕は太宰治の「正義と微笑」の言葉が有効だなと思う。少し長いけれど、引用する。

勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物も、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。 日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る 必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、 心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。

 勉強することの結論が「心を広く持つ」ことで「愛するという事を知る」と太宰治は書く。そして、「生活に無理に直接に役立てようとあせって」もいけないともある。
 僕は人生をゲームとして考える方が色々なことがスムーズに進むと思っている。けれど、そうすると役立つものが優先的になってしまう。
 今この瞬間、役に立たないものは削ぎ落とす。ゲーム的に考えれば当然で、効率的に人生を歩むことが最良になってしまう。

 僕はそういう人生はつまらないと思っている。
 人生をゲームとして僕は考えているけれど、ゲームとして人生を歩もうとすることは否定するし、大前提として人生はどこまでいってもゲームにはなり得ない。
 あくまで考え方としてゲームを取り入れているに過ぎない。
 その上で、人生をゲームとして考える時に大事なのはゴールだ。
 人生におけるゴールとは何か。 

 僕はそれを太宰の言う「愛するという事を知る」に求めたい。
 人が愛を感じられるのは基本的に遡行的なものだ。
 親(や祖父母)が自分を愛していたかは時間が経った後に親(や祖父母)との時間を遡って考えた時だし、別れた恋人のことを本当に好きだったと気づくのも別れた後だったりする(逆に全然好きじゃなかったと気づくこともある)。
 つまり、愛は点ではなく、線で理解するものなのだろう。

 誰もが愛される経験をしているとは言えないけれど、他人を「愛する」ことは誰でもできる。
 大事なことは「カルチベートされるということ」だと太宰治はいっている。
カルチベート(cultivate)」は「修める、練磨する、深める」という意味だ。
 すぐに忘れてもいいから「修め」「練磨」し「深める」こと。
 そうすることが「心を広く持」つ一歩目という理解で良いのだとすれば、誰でも「愛するという事を知る」ことはできる。

 人間には他人を「愛する」能力がもともと備わっている。それは、おそらく歩くとか喋れるようになるとかと一緒で誰かに教えてもらったり、自分で学んで「知る」必要はあるけれど、正しく学べば歩いたり喋ったりできるように、人間は他人を愛することができるようになる。

 愛は伝達可能であり、正しい手順を踏めば誰もが学び取れる能力でもある。
 この事実は五月に結婚する予定の僕にとってはとても重要な事実だった。

 愛のない結婚なんて言い方がある。けれど、愛のある結婚とは言わない。それは結婚には愛があると前提とされているからなのでしょう。
 この先に始まる結婚生活において、愛を忘れないよう日々を過ごしていきたいなと思う所存です。

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。