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【小説】あの海に落ちた月に触れる⑨「自分の欲しいものを言えない人は、それを生きていると言えるのか」

前回

 スクールバッグも持たず、僕は学校を出た。

 途中で体育を担当する教師に声をかけられたが、体調が悪いからと言った理由をこじつけた。バッグを持っていないことを咎められたが、僕はまともな返答をしなかった。
 というよりも、できなかった。

 腕を掴まれ、生徒指導室に引っ張られそうになった。
 体育の教師は僕を何度も何度も怒鳴り、それに効果がないと分かると頭を叩いた。目の奥が赤く何度も点滅した。
 僕は何かを言おうとしたが、言葉は出てこなかった。

 生徒指導室の椅子に僕は座らされた。
 目の前に体育の教師が座って、何かを言った。「これから授業だと言うのに、お前のせいで、」と教師は言った。
 僕は何も言わなかった。

 また、教師は僕の頭を殴った。
 痛みは無かった。苛立ちはあった。
 一人になりたかった。

 そこに女性の担任教師が姿を見せた。彼女が体育の教師に何かを言った。
 その意味も僕には理解できなかった。
 体育の教師が生徒指導室を出て行き、担任教師が優しい声で僕に何かを言った。
 やはり、意味は分からなかったが、これで一人になれると思った。

 僕はまっすぐ家に帰って、部屋に籠った。
 両親が部屋に入ってきても反応しなかった。食事を出されても食べなかった。
 トイレの時だけ立ち上がったが、基本的にベッドの端に座って僕は空中を見据えていた。

 何もする気も起きなかったし、何も考えられなかった。
 意識が浮き沈みし、気づけば部屋が暗くなっていたり、明るくなっていたりした。僕の中で時間がゆっくりと溶けているような感覚だった。

 誰かが激しくドアを二度、叩いた。僕は反応しなかった。

 ドアが開く。視線を向けなくとも誰であるかは明白だった。兄貴だ。
「おい」
 兄貴が僕の胸倉を掴んだ。
「お前、いつの服をいつまで着ているつもりだよ?」
 僕は人形のようにされるがまま、兄貴の肩から腕の横にある空間をぼんやり眺めていた。

「俺、今からお前を殴るから」

 ○

 兄貴は僕を殴り出した。

 僕の髪を掴んで、平手のようにして何度も頬を殴った。
 血がベッドに散っていくのが分かった。痛みよりも熱が僕の顔に集まっている感じだった。
 しばらくの間、殴り続けた兄貴は僕を投げるようにベッドの上に放り出した。

「お前がそんな状態になるんだから、よっぽどのことなんだろーけどよ。何もしなけりゃあ、どーにかなる問題なのかよ?」
 僕は柔らかなベッドの感触と血の散ったシーツを見つめていた。
 兄貴が冷たい声で言った。
「じゃあな」

 僕の視界に分かるように、丸められた小さな透明なビニールの塊を置いた。
 ビニールは古く、土汚れのようなものも確認できた。
 兄貴が僕の部屋を出て行くのに、四歩かかる。
 その三歩目で、僕は体を持ちあげた。

 兄貴、と呼ぼうとしたが、声が上手くでなかった。
 何日、声を出していなかったのだろう?
 三日か四日というとこだろう。溶けていた時間が瞬間的に固まる。
 ただの熱だった痛みが、激しい痙攣と鉄の味によって、激痛となった。
 
 よくもまぁ好き放題に殴ってくれたものだ。
 クソ兄貴。ちくしょうめ。

「あ? もう復活かよぉ? 早ぇな」
「ど、うして兄貴が、これを持ってんだよ?」
 僕の目の前に置いたビニールの塊の中に入った、小さな白い欠片、歯だ。
 昔、兄貴に殴られて抜けた僕の歯。
 陽子と一緒に煙草を吸った、空き地の奥に並んだ三つの木の真ん中の根元に埋めた。何もかもに負けて屈していた頃の僕の一部。

 兄貴が僕を見ていた。
「その歯が抜けた時、お前、初めて俺を睨んだからさ。なんか気になってて、そしたら、その日のうちにお前、家を抜け出すから、追いかけちまったんだよ。
 で、空き地の木の下に、それを埋めているのを見たんだよ」
「でも、別に悪いとは思っていないんだろ?」
 歯が抜けた後も兄貴は僕を苛め続けた。

「ん? 思わなかった。俺が苛めなくても、他の奴がお前を苛めんだろ」
「なに、それ?」
「お前は弱いから。自分の欲しいものさえ言えないヤツを俺は生きているとは見なさない」
 箱ティッシュを取って、口元の血を拭う。
「そう思うのは、やっぱり矢山の長男だから?」

 矢山の長男は代々短命な代わりに、何かしら特質した才能を持って生まれた。
 それが嘘か、本当か分からない。ただ兄貴は常に、彼は長く生きられないという目で見られてきた。

「関係ねぇよ。俺が俺であるだけで、他の奴らは関係ねぇ」
「そっか」
「でも、お前は、俺がすぐに死ぬって思っているよな?」
 誰よりも僕は思っている。
 兄貴は僕より長く生きられない。

 ○

 携帯を開くと電源が落ちていたので、充電器を差しこんだ。
 部屋を出て何日かぶりのシャワーを浴び、清潔な下着と服に着替えた。
 僅かに伸びた髭を長い時間をかけて剃って、丁寧に歯を磨いた。
 気分が随分とさっぱりした。

 冷蔵庫を開け、食べられそうなものを漁る。
 奥の方にビニール袋に包まれた、からあげ弁当があった。半額のシールが貼られていた。

「弁当、俺が買ったやつだわ。喰っていいぞ」
 声がして、リビングの方を見ると兄貴がソファーに座って本を読んでいた。
「これ賞味期限、切れてんじゃないの?」
「いらねぇなら別にいいぞ」
「いや、もらう」
 からあげ弁当をレンジで温めて、箸とお茶のペットボトルを持った。

「なぁ、行人ー」兄貴が僕を呼んだ。
「なに?」
「お前さ、今なら自分の欲しいものが何か分かってんのかも知れねぇけど、望みすぎなんじゃねぇの?」
 そうかも知れない。僕はまだ自分には何ができて、何ができないか、正確に測れていない。
 けれど、「まずは、思うがままに望むのは悪くないでしょ?」と僕は言った。

「悪くはないが、よくもねぇよ」
 至極ごもっとも。

 部屋に戻って携帯をオンにすると、三十一パーセント充電されていた。
 幾つかのメールと不在着信の通知が表示された。秋穂からの連絡はなく、代わりに陽子からメールが二件と不在着信が三件とあった。
 メールの内容は、連絡が欲しい、というものと、僕の身を案じたものだった。

 どうやら陽子はもう学校に復帰しているようだ。
 朝子の葬儀は終わったのだろう。そう思うと、必要な時間だったとしても、口を閉ざし部屋に籠っていた自分が不甲斐なかった。
 からあげ弁当を食べ、お茶を飲んで一息ついた。

 ベッドに置かれた小汚いビニール袋に目がいった。
 それを握って、僕は陽子に電話した。コール音が一回鳴って、陽子は電話に出た。

「行人、くん。あのね、」
「ごめん」
 僕は陽子の言葉を遮って謝った。

 陽子は少し黙った後に言った。
「何についての謝罪?」
「自分のことで手一杯になっていたことについて」
「それは悪いことじゃないよ」
「良いことでもない」
「でも、電話をくれたってことは立ち上がったってことだね?」
「気持ちの整理はまだだけど、それはこれからするよ」
「そう」
「陽子は大丈夫?」
「大丈夫だよ。覚悟はしていたからね」

 用意していたような物言いだった。
「ちなみに、陽子。今日って何曜日?」
 携帯の画面にはちゃんと曜日も表示されていたはずだけれど、僕は見ていなかった。

「金曜日だけど?」
「じゃあ、少し付き合ってくれない?」
「どこに?」
「朝子の神様のところ」

 ○

 夏休みの宿題を手伝ってもらう時に待ち合わせたローソンで陽子と落ち合った。
 陽子は黒の半そでティシャツに赤の花柄スカートという出で立ちだった。僕らは軽い挨拶の後、とくに喋ることなく隣合って歩き出した。
 どこに行くとも言わなかったが、陽子は黙ってついてきた。

 歩道を歩いていると、隣の道路で幾台もの車が僕らを通り越していった。時々、光る車のバックライトが目の奥でじんじんと残った。
 上り坂に差し掛かり、やはり数の少ない外灯を頼りに僕らは歩いた。
 一度、陽子の表情を窺おうとしたが、よく分からなかった。

 山の中腹まで来て、生い茂った木々の隙間にある石の階段までたどり着いた。
 あの暗闇にまた身を投じることを思うと、僕の足は竦んだ。
「ここ?」と陽子が言った。

 うん、と頷いた後に「暗くて危ないから、手を繋いでいこう」と言ってみた。
「ううん。一人で行く。そうしなくちゃいけない気がする」
「そっか」

 あの時は先に朝子が階段を登っていた。
 けれど、今回は誰も先にはいない。
 耳を澄ませる。木々のざわめきがあるだけだった。
 僕は階段の一歩目を踏みしめた。一段、一段、形の違う石段を注意して僕は進む。数秒して、完璧な暗闇に包まれた。
 前回と違うのは、今回は先には誰もいないが、後ろには陽子がいて立ち止まるとぶつかってしまうことだった。
 だから、僕は一定のスピードを保って進み続けなければならなかった。

 ――誰かに肯定してもらって、行人くんはどうしたいの?

 ふと、朝子の声が浮かんだ。
 確か、セックスをしたい理由は誰かに肯定されたいからだ、と僕が言ったのだ。その時に朝子は言った、肯定してもらって、どうしたいの? と。
 そして、誰でも良いなら、私とする? そう言ってくれた。

 優しい子だった。
 本当にあの場でセックスをすれば良かった。
 夢の中なんてあやふやな場でセックスをするより、ずっと現実的で、素敵な体験だったはずだ。もちろん、上手くできたかどうか分からない。
 ただ試してみるべきだった。

 僕が誰かに肯定してもらいたい理由は多分、秋穂だ。
 ミヤと寺山凛の二人を見て、僕は本物だと思った。互いに傷つき合い、苦しみながら、そこには確かな愛情があった。
 僕は誰かを、例えば、秋穂をあれ程に傷つけ、それに苦しめられるだろうか、と思った。

 ――嘘をついて、流れに逆らわない言葉を身につけて。本音を隠した。

 そう美紀さんは言って、僕を立派だと続けた。
 ミヤは他人を演じていたが、僕は基本的に素で嘘をついている。
 それが美紀さんには分かっていた。ミヤには明確な本音があるけど、僕は嘘をついているが為に、あるはずの本音が捻じれてしまっている。
 だから、僕は本当の意味で誰かを傷つけられないし、真剣に苦しむこともできない。

 僕ができるのは朝子の死を知った時のような、虚脱状態になることだけだった。それは自分の心を守る為の、生命活動さえもを放棄する行為でしかない。
 傷つき、苦しんでいるはずの本当の僕を僕は直視できていない。
 そんな自分をセックスという未知の行為に導くことで何かが変わると僕は期待した。

 けれど、それは結局は他人任せの怠惰に他ならなかった。
 目の奥がじんじんと痛んだ。気づけば僕は階段を登りきり、ほのかな光の中に一人立ち止まっていた。変わらない小さな墓地。墓の真正面は開けていて、町が見下ろせた。
 一度しか見ていないが、少し懐かしい気持ちが浮かんだ。

つづく

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