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AIには分からない楽しさを味わう夜。

「われわれ人間の意思にはたして〈自由〉があるかは別としてだよ、たとえばレゴでなくてもいい、きみの国のボードゲーム〈将棋〉で考えてみろ。今じゃどんな名人もAIには敵わない。論理や戦略において、AIは完全無欠に近づきつつある。でもこの国では、公園に老人たちが集まって、将棋を指しているんだろう? 老人たちはいろんな理由でやってきたはずだ。天気がいいから。友人がいるから。ただ何となく。そして、あれこれおしゃべりをしながら、ゲームを楽しむ。しかし、AIはそんなことはしない。『天気がいいから公園で将棋を指そう』なんて思わないんだよ。もしあるとしたら、意思に見せかけたプログラムが働いているだけさ。重要なのは、対象が将棋にしろ、レゴにしろ、AIには基本的に分かっていないという点なんだ」

佐藤究『Ank: a mirroring ape』より

 確かに「ただ何となく」行動できるのは人間の資質かも知れない。
 僕は自分の生活のあらゆることを「ただ何となく」で決めてしまう部分が多く、それで失敗することも多々ある。
 良くないと思うこともあるけれど、全ての行動に理屈や理由を求め始めることは、僕の生活の楽しさを狭めてしまう気がしている。

 日曜の夜、終電を逃した。
 ただ何となく、もう少し友人とお酒を飲んでいたかったのだと思う。酔っ払っていて、その時の気持ちも判断の理由もまったく覚えていない。

 この酔っ払って云々という状況がまず、AIにはあり得ない。
 そう考えると、AIには終電を逃したから僕の部屋に友人が泊まることになったからと近所のバーに行って、再度盛り上がってから、部屋で二人缶チューハイで飲み直しつつ、「リコリス・リコイル」の1話を見ることの楽しさが分からないのだ。勿体ない。

 AIがどれだけ発展しても、この何の合理性も理屈もない行動の積み重ねは分からないんだろう。
 できるなら僕は死ぬまで、このAIには分からない楽しさと戯れていたいと思う。

 とはいえ、日曜日にはしゃぎ過ぎたせいで、今週のリズムはガタガタで飲みすぎは注意しようと思ったりはしてるんですよ。本当に。

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