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映画『ノック 終末の来訪者』【考察】※ネタバレ有

2023年に公開されたサスペンス映画『ノック 終末の来訪者』。M・ナイト・シャマラン監督作品です。
本作はシャマラン監督の映画『サイン』のような舞台であるにも関わらず、同作とは全く違った展開を見せています。
4人の来訪者は何者だったのか? 最後に残されたものは何だったのか? 
考察していきます。

この考察は、あくまでも私の主観です。
この解釈が正しい! とは言いにくいので、「こういう解釈もあるんだな」程度に楽しんでもらえたら幸いです。
言いたいことをまとめられず、分かりにくい文章になっているかと思います。そのうちまとめ直します……。

※ネタバレ有りの記事です


【考察①】カルトを肯定するストーリーではない

画像出典:映画『ノック 終末の来訪者』公式Facebook

一見、終末論やカルトを肯定するようなストーリーに思えます。
しかし、本作が言いたいのは全く真逆のメッセージ。カルトのせいで愛する人を失った、残された人を描いた作品だと思っています。

【考察②】シャマラン監督のスタンス

画像出典:映画『ノック 終末の来訪者』公式Facebook

シャマラン監督は特定の宗教を信仰しているわけではありません。しかし、シャマラン監督の作品には「神」の存在がたびたび登場しています。
これは
神の存在を仄めかす→「神様は本当にいるんだよ!」
という直接的な宗教の意味というよりも
神の存在を仄めかす→「この世界も捨てたもんじゃない」「こんな世界にも奇跡や希望はあるんだ」
という演出に「神」という存在を使っているように感じます。

だからシャマラン監督の作品では、最後に「悪魔の存在を知った。悪魔がいるから神もいるのだと知った。だから、亡くなった愛する人も今は穏やかな場所にいると信じられた」という救いのあるものが多いのです。
本作も、シャマラン監督のそんな作品のラストに近いものになっています。

【考察③】キリスト教的な暗示

画像出典:映画『ノック 終末の来訪者』公式Facebook

ウェンは後6日で8歳。つまり今日を入れて7日、現在は7歳
この家にやって来た人はウェンたち家族3人と「来訪者」4人、合わせて7人
ノックも7回

本作には意味ありげに「7」という数字が登場します。キリスト教において7という数字には意味があります。
神が6日で世界を作って、7日目を安息日とした「7」
「7」は「完全」な数字だとされています。
また「七つの大罪」も「7」。

そして、「七元徳」も「7」です。
七元徳は、知識・勇気・節制・正義の4つに、信仰・希望・愛の3つを追加したもの。
なんだか、本作のキャラクターとリンクしているように思えませんか? 

信仰はエリック
希望はウェン
はアンドリュー
でしょう。

パンドラの箱のようにこの場所から災いが飛び出していきました。
「箱」「瓶」となっているこのキャビンから災いが飛び出し、最後に残ったのは……。本作の原作だと生き残ったのはアンドリュー(愛)だけでした。しかし、本作では、「希望」だけではなく「愛」も残った。
そう思えると、本来の「パンドラの箱」よりも「希望」が持てるラストなのかもしれません。

【考察④】この映画の舞台

画像出典:「ユニバーサル・ピクチャーズ」公式Facebook

本作は1961年~1990年を意識した作品になっています。冒頭の「ユニバーサル・ピクチャーズ」のロゴが気になった方も多いのではないでしょうか。現在のCGの綺麗なロゴではなく、ひと昔前の古いものが使われています。これは1961年~1990年に使われていた5代目のユニバーサル・ピクチャーズのロゴです。

ま英語の原題のタイトルが登場した時。
現在は吹き替え版でも、邦題のタイトルが字幕で補足されるか、字幕なしでそのままタイトルが流されるか、が多いように思います。
しかし、本作の吹き替えでは、主要キャラを担当した声優がこのタイトルの邦題を読み上げます。旧作の洋画の吹き替え版で、よく見る演出です。また、冒頭のオープニングのフォントもどこか懐かしく感じます。

本作では1961~1990年の時代を意識しているようです。しかし、本作の舞台はスマホもネットもある現代の話。なぜこの時代を意識しているのでしょうか? 

本作の宗教的なストーリーもあわせて考えると、1960年代アメリカでブームとなったヒッピーやそこから傾倒していくカルト的な宗教その問題がこの物語のキーになっているからではないでしょうか。

【考察⑤】カルトへの入り口

画像出典:映画『ノック 終末の来訪者』公式Facebook

キリスト教的な暗示が多く登場する本作。
そこで興味深いのが、レナードたち4人が信仰深くない、というところ。彼らは熱心なキリスト教徒ではないのです。

本作にはキリスト教的な暗示が多いですが、それを語る4人は信心深くありません。
小さい頃に付き合いで教会に行ったきり、という女性もいました。そんな彼らが突然見たヴィジョンを「運命だ!」と妄信します。
なぜ信心深くない自分たちが? と聞かれても答えられない、本人たちも答えられないのも興味深いです。

宗教なんてと思っていたところに、「これだ!」というものに出会って……異常なほど妄信してしまう。
これは暗示だ、これも運命だ、と家族や友人に言ったところで周りの人にはなかなか受け入れてもらえないでしょう。彼らの中には社会的に孤立してしまった人もいるかもしれません。そんな人たちが掲示板に集まり、同じ「想像」をしている人と話しているうちに、その「場」が孤立している自分の心のよりどころとなり、行動まで起こしてしまい……なんだか終末論に傾倒するきっかけカルト団体に入るきっかけのように見えます。

ヴィジョンがあったからこの4人が集まったのか? 掲示板を見てヴィジョンを見たのか? このヴィジョンは正確だっけ? 4人の出会いのきっかけ等が実はあやふやなのが分かる会話のシーンがあるのも興味深く、恐ろしいところです。

【考察⑥】彼らの「カルト」

画像出典:映画『ノック 終末の来訪者』公式Facebook

ラスト、彼らが言っていること「身の上話」が本当だったことが分かります。つまり、同性愛者を狙った暴行事件ではない、ということがはっきりしました。しかしそれが、彼らの言い分の正しさにはなりません。
彼らが本当に心から信じていた、妄信していた、という証拠にしかなりません。彼らの信じる終末カルトが本当だった証明にはならないのです。アンドリューにとっては「だから何だ」としか思えなかったでしょう。

4人の来訪者たちにとって「世界が救われた」「自分たちは正しかった」「救世主として死んだ」という意味のある死だったかもしれません。
しかし、残された家族、写真に写る息子にとってはどうでしょう。親を再び失ったウェンにとってはどうでしょう。愛する人を失ったアンドリューはどんな気持ちでしょう。

最初レナードたち4人がウェンたち3人に語る「自己紹介」。こんなものを聞かされてアンドリューたちは困惑します。

これらのシーンから、「自分たちが救世主だ」と信じている4人は、優しい言葉をかけながら、相手や周りの人間からこの行動がどう見えているのか客観視しきれていない自分勝手な人たちだと解釈できます。
明らかに、周りから孤立してしまっているからこそ「宗教」を妄信してしまっているカルト信者として描かれているように思えるのです。

また、本作はカルトに近づく恐ろしさも描いています。エリックは、最初全く彼らを信じていなかったのに最終的に、彼らのように妄信してしまいました。否定していても、面白半分でも、カルトに近づきすぎると飲み込まれてしまうのかもしれません。

カルト教団から逃げた人々の証言からカルト宗教について言及するドキュメンタリーシリーズの『カルト教祖になる方法』。そこで、元信者が「そこで奇跡を「見て」しまった。「見た」からには信じるしかなくなった」と語る部分があります。
それがトリックであれ、目の錯覚であれ、「奇跡」を見てしまったら、信じてしまうのかもしれません。私もあなたも。
そして、エリックも。脳震盪のせいかもしれない。けれど、エリックは「見て」しまい、信じてしまったのです。これが、人がカルト宗教に傾倒する瞬間。この一瞬で信仰も命の価値もすべて変わる……そんな恐ろしいシーンに思えてなりません。

【考察⑦】残された人へ

画像出典:映画『ノック 終末の来訪者』公式Facebook

彼らの話が本当だった可能性もあります。妄信していたそのヴィジョンが100%正しかったのかも。実際、災いは止まりました。本当に人類のための必要だった犠牲だったかもしれません。

しかし、本作で重要なのは、「彼らのヴィジョンが本当だったのか嘘だったのか」ということではなかったと私は思っています。重要なのは、愛する人を失った人々がたくさん残されていること

カルトであれ、大義のためであれ、誰かを助けるためであれ。自己犠牲でヒーローになった人の後にあるのは、助かった命・世界だけではありません。
愛する人を失い、悲しみに暮れる遺族が残されるのです。

ラストに流れる、思い出の音楽。レナードたちがこの音楽を聞いていたのは、エリックの運命を暗示していたものなのでしょうか。偶然でしょうか。
これは、愛する人を失い、残された人への「救い」だと思っています。

エリックが、アンドリューやウェンの近くにいつもいる、というメッセージでしょう。亡くなった彼らがちゃんと神の国に迎えられていますように、天国へ迎え入れられていますように、私たちを見守ってくれていますように。神(希望)を信じるシャマラン監督の願いと祈りだったと思っています。

まとめ

本作は終末論を信じる話でも、カルトを肯定する話でも、宗教を肯定する話でもありません。
愛する人を失った人の悲しみを描き、その愛する人が救われているよう祈る、切ないドラマなのではないでしょうか。


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