月命日
今日は姉の月命日。
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、1月16日に姉が救急車で運ばれ、
2月5日
午前9時10分
自宅で家族に見守られながら旅立ちました。
最後まで生きる希望を失わず、入院してからも「リハビリをして、歩ける様になって帰りたい」そんな目標を持ちながら頑張っていました。
後から考えると、この時はもうかなりしんどかったはずです。
1月25日
入院する前からの予定でCT検査があり、その結果を緩和ケアの先生から姉へお話しされました。
生きる希望を持つことがどんなに大切か。もう駄目なんだと思った瞬間、頑張って、頑張って咲かせていた花が一瞬でハラハラと散ってしまう様に、目を開けることも出来ないくらいに症状が一気に悪化しました。
余命の事は、頑張っている本人へは言わないで欲しかった。
(2週間では無く「3ヶ月から1年」と告げられたらしい)
何も知らなかった私は、何故、急にLINEが既読にならなくなったのか、電話も繋がらないのか、不安な気持ちでビデオコールのボタンを押し続けていました。そして姪っ子から、スマホが使えなくなってしまっている事を聞き、もう話せないんだ….と言うことが言葉で言い表せないくらい
ショックでした。
ほんの数日前は「やっとご飯が刻み食に変わったよ。美味しい!」と、嬉しそうに言ってたのに…
日付けが分からなくなってパニックになったり、夜中に眠れなくなると言う、せん妄の始まりの様な症状はあったので、たまたま始まったタイミングが告知の後だったのかも知れません。
姉はパニック障害もあるので精神面で不安にならない様にずっと励まして来ていて、先生も同じお考えなのか余命を宣告される事はありませんでした。もっと早く、1年前に余命宣告をしていただいて終活をしたら良かったのか、何が正解だったかは今でも分かりません。
再発したと分かった時の最初の数ヶ月、姉は肝転移の余命を調べたりして鬱状態になりかけていたので、その精神的な辛さをどうにか和らげてあげたい、その一心でした。
自分は1年後に死んでしまう。
と思いながら生きる不安は、それを経験した本人にしか分かりません。心が元気な時と、病気で体調が悪いときの告知ではショックの大きさも変わってきます。事故や何かで、突然、死と直面する事があるかも知れませんが「自分は死ぬんだ」と毎日恐怖を感じながら最後を迎えるのとは違います。
命にリセットボタンはないから、一つ一つの選択で、あの時こうしていたらと後悔がつきまといます。
そんな時、同じ様に最愛なるお姉様のお見送りをされている妹さんの動画が目に止まりました。
この動画を見ていると、明るく支え合う姉妹の様子が私達と重なり号泣、でも何故だか気持ちが穏やかになりました。後悔ばかりしているのは姉も望んでいないはず、と思える様になりました。
何もかもが手探りの中、本人も家族も一生懸命だった。
それぞれが、その時に出来る限りの事をやって走り抜けた気がします。
それが、あまりにも早すぎた。
******
帰国した2月2日
甥っ子に空港へ迎えに来てもらい、実家に着いて直ぐに姉の部屋へ行きました。
告知を受けて「家に帰りたい?」と聞いた甥っ子に
「さっちゃんにおかえりって言ってあげたい。」と言った言葉通りに、私が実家に到着する数時間前に、姉は帰宅していました。
手を握って
「帰ったよ、頑張ったね」
と伝えると
「真風さん、真風さん、真風さん」
と3回言いました。
宝塚の真風さんが大好きな姉。
2月1日発売の婦人画報の表紙を飾られると聞いて、これは励みになる!
間に合ってくれ、と言う願いを込めてオーダーした雑誌が帰る前日に届いていました。
枕元の雑誌を見て、「届いたね!良かったね!」
姉は目が開けられないので雑誌は見えていませんでしたが、喜んでいる事が本当に嬉しかった。
翌日も、看護師さんが「話せなくても耳は聞こえてますから、沢山話しかけてあげて下さい。」と言われた瞬間、目を閉じたままの姉の目から涙が溢れました。
直ぐに手を握って「12月に帰って欲しかったんよね、ごめんね。ごめんね。」と号泣すると「そうよ、さっちゃん鈍いんじゃから!」
これだけの会話でしたが、この時の姉の一言一言が愛おしくてたまりませんでした。もっともっと、伝えたいことがあったはず。
でも、それを最後に
姉は翌日
旅立って逝きました。
子供の頃から一緒に支え励まし合って生きて来たのに、お別れはこんなにあっけない。
乳がんになっても、早期発見だったから大丈夫と安易に考えていた自分を呪っています。
あの時は、術後もまだ一緒におばあちゃんになれると思っていましたから….
あー、また後悔してる。
姉は親友に「さっちゃんはわたしのことが大好きだから、わがままが言えるのは妹だけなの」といつも言っていたそうですが、わたしも友達に「姉はわたしのことが大好きなんよ。」と言っていました。
痛い姉妹だ、笑。
春になったら、宝塚の宙組トップスター真風さんの退団公演に行くことを励みにしていた姉。
その姉が咲かせたかのように、アメリカに帰ると家のまわりに可愛いスミレの花が1面に咲いていました。
叶わなかった夢は、いろんな方々がその思いを「ムラ」へ届けて下さいました。それは、姉にとって1番の弔いになったと思います。
感謝。
******
現在、姉の部屋は救急で運ばれた時のままの状態で時が止まっています。
食べかけのカロリーメイト、付箋のついた読みかけの本、テーブルの上に残されたメモ…。
ここに姉がいた。
生きていた。
まだママの匂いのするふとんに包まれて横になっている姪っ子を見ると、胸が痛みました。
どれだけ時が経っても、もう一度姉に会えるまでは、この悲しみが消えることはありません。
父も若くして亡くなりましたが、その時の悲しみとは違う。年子で年齢も近く自分の分身の様に育ち、亡き父のあとは私の事をずっと見守ってくれていた、この世でたった1人の姉の死は、胸をドーンと突かれて鉛の塊を埋め込まれた様な、言葉に出来ないくらい辛い。でも、次に出会う時に沢山いろんな報告が出来るように頑張って生きなければ。
******
「悲しませるから」と病気のことを言わなかった代わりに、いろんな人を励ましてあげていた姉のお葬式は、会場に入りきれないくらいの参列者でいっぱいでした。
その中で、甥っ子は自分の言葉で思いをゆっくりと語り、その一つ一つに、みんなで涙しました。
甥っ子と姪っ子が分担して立派にやり遂げている姿を見て、姉も安心したのではないかな。
頑張り屋さんで、小学校3年生からずっと学級委員長だった姉は、人生を終える最後までみんなに慕われるRole modelのような人でした。
夏の帰国で母が突然
「あなたはここ(心臓をたたいて)が強いけど、おねえちゃんは本当は弱いんよ。」と私に語りかけて来て驚いたことがあります。強く人を励ます裏側で泣いている姉のハートを母は良くわかっていました。
母には自分の娘が亡くなったことは伝えていません。でも、何かを感じとっていたのでしょう、亡くなる2、3日前から「胸騒ぎがする」と言っていたらしく、施設から「電話してあげて下さい」と連絡が来ました。
姉は乳がんの手術をしても母には分からない様に心配をかけないように辛い時も何も言わず、認知症の母が暴言を吐いても我慢してここまで来たので、話すべきか悩んでいる時
「お母様が大腿骨頚椎骨折されて入院されました。」
と施設から連絡が来たのは、私が空港に向かう前、姉を自宅に連れて帰る前日の事でした。
もしかしたら
「お母さんには言ったらいけんよ!」
と言う、姉からの合図だったのかもしれません。
心配症の姉は残して行く家族のことがとても気がかりで、再発が分かってすぐに子供達の事をお願いされました。
******
姉が亡くなってからアメリカに帰るまで、前回の帰国で掃除をした母の部屋で寝起きしていました。あの時は、もっとずっと先で姉が車椅子になったりしたら使える様にしたいと言う思いもありましたが、こんなに早くなるとは…。
ある日、その部屋のベッドに寝転んでスマホを見ていると「コン!」とノックする様な音が3箇所あるドアから聞こえてきました。
それ以来、何度も聞こえる様になりました。家のきしむ音なのか、その時ははっきり分からないままでしたが、音がするたびにに「姉かも知れない」と思い話しかけました。
それからアメリカに帰り、娘と映画を見ていたらTVの横から「コン!」と同じ音が!TVから?と思い直ぐに巻き戻しましたがそんな音はしません。娘が「どんぐりが壁にあたった様な音」と表現していましたが、まさにそう。
あの音です。
今までの中で1番大きな音。
「姉だ!」
アメリカまで一緒に来ている事が嬉しくなりましたが、その音はそれっきり聞こえなくなりました。
写真の中みたいに
「オッケー👌」
と言って、他の悲しんでいる人のところに行ってしまったとしたら姉らしいな。
姉はわたしが大好きで、
わたしも姉が大好きで、
でも、生きているときにそんな会話はしたことがなかったな。
姉へ
あちらがどんな場所か分からないけど、また会う日まで待っていてね。
「ただいま!あー疲れた〜」
と言って帰って来るんじゃないかって、今でもそう思ってる。
初盆はLINEで繋いでもらうよ。
本当は、日本に帰って実家で迎えてあげたいけれど、ごめんね。
いつものビデオコールで
今度は私が
「お帰り!」って
言ってあげるね。
ともに過ごした
かけがえのない時間を
ありがとう。
1965ー2023
享年57歳
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?