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友と冒険家とミスチルと#BlackLivesMatter(1)前編

本記事では、Mr.Childrenの曲に触れ、ステレオタイプ、ひいては#BlackLivesMatterの問題に想いを巡らせてみようと思う。

僕は「海から山に登る」冒険家だ。世界に7つある大陸それぞれの最高峰を海から登るプロジェクトに挑戦している(詳細記事はこちら)。冒険家として活動してゆく中で感じる「周囲のステレオタイプ」そして「セルフブランディングの考え方」をまとめて連載記事にしようと思う。

”ああ風の噂で君の話を聞いたんだよ...何をしてあげられるという訳じゃないけど”  - Mr.Children 『友とコーヒーと嘘と胃袋』

北米にて偏見に苦しむ友に想いを寄せて。

友と冒険家とミスチルと#BlackLivesMatter(1)前編
■Mr.Children『デルモ』に歌われる苦しみと筆者の共感とは?
■大企業勤務を経た冒険家の筆者が経験していることとは?
■大切なこと①:個人は幾つもの〇〇の掛け合わせ
■#BlackLivesMatterの問題の根本にある原因とは!?
■大切なこと②:〇〇を見ることが肝要
(筆者加筆)

『友と冒険家とミスチルと#BlackLivesMatter』は、2020年5月に「ジョージ・フロイド事件」が起こった時に草案したものです。「投稿するタイミングを逃してしまったな...」と思いながら時が経ちましたが、ふと昨日目にしたこちらの記事が僕の背中を押してくれ、投稿するに至りました。
このnoteの草案から一年以上の月日が経ちましたが、「この問題の根本原因は様々な場所で未だに存在する」と感じることが多々ありました。草案当時からの僕の考え方は変わっていませんので、草稿をほぼそのまま載せようと思います。#BlackLivesMatter、差別問題、マイノリティと多様性、といったテーマに関して、読者の方が一考する一助となることあれば、それは非常に嬉しいです。

(2021年8月13日 ボウケンカ 吉田智輝)

冒険家がミスチル『デルモ』を聴いて感じること 

『デルモ』はバブル期に活躍するトップモデルの心境を歌ったMr.Childrenの楽曲だ。久しぶりにこの曲を聞いたのは最近のこと。「この曲は俺のことも歌ってるな」という感想を抱いた。

トップモデルとして華やかな仕事をこなす主人公の「私」。特別扱いされすぎてしまって、本当の自分をみてもらえない。チヤホヤされることを心地よく思っていたのも昔の話で、今は虚しさと孤独感が募るばかり。

『デルモ』の女性が感じていた違和感は、僕が冒険家として活動してみようと思い立った理由の一つとも重なる。冒険家としての活動を始める前の僕は、異国・シンガポールの金融業界で働いていた。資本主義の権化とも形容される金融機関の名刺を渡せば、『すごいね!』『優秀なんですね』『お金持ってんだー!』などと買いかぶってくれる人もいれば、『悪いことしてんでしょ?』『遊びまくってるんでしょ?』などと初対面にも関わらず失礼なことを言ってくる人もいた。

『デルモって言ったら “えっ!”ってみんなが 一目置いて扱って 4、5年も前なら そんな感じにちょっと酔いしれたけど 寂しいって言ったらぜいたくかな かいかぶられていつだって 心許せる人はなく 振り向けば一人きり』 - Mr. Children 『デルモ』

よくも悪くも、僕に向けられるそんな偏見を流しきれず、また、そんな偏見の中に個性を隠してしまう自分も嫌で、看板を脱ぎ捨てて個人で活動してみたいと思うようになった。その試みの一つが冒険家としての活動だが、有名企業の名前を背負っていようが、個人で活動していようが結果は同じだった。

『ボウケンカ』って言ったら、"えっ!"ってみんなが一目置いて扱って 

面白がってくれるのは有り難いが、同時に飛び出す言葉は大抵こんな言葉だ。

「意外とほそい」「弱そうだけど大丈夫?」「肌白いですね」

典型的な冒険家のイメージといえばおそらく、恰幅が良くて、髭を蓄えていて、顔はこんがりと日焼けしている。30年前、6カ国合同の南極遠征隊を率いたレジェンド冒険家・Will Stegerはまさにそんなイメージにぴったりと当てはまる風貌をしている。

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【典型的な冒険家の肖像(撮影:THINK SOUTH FOR THE NEXT にて)】(中央:Will Steger米、右:Victor Boyarsky露)

「冒険家」として活動している僕に対して向けられる言葉。別に悪意があって言ってるわけじゃないだろうし、そんなに気にもしていない。でも、こんなにも頻繁に色眼鏡で見られたら僕だって、『脱いだらすごいんですよ』って言いたくなるし、日傘にアームカバー...「お肌トラブル」を回避している弛まぬ努力を語りたくなる。

立場を変えてみても結果は同じだった。周囲の勝手なイメージがまた僕を襲う。時には涙モデル。

目の前の人のことを理解しようと努める

「他者」をみるとき、その人のことをいかに理解しようとするか、それが重要ではないか。目の前の人について、全てを知ることはできないと自覚しながらも、その人の機微に触れ、性格を尊重し、考えを理解しようと努める。そんな態度が忘れられていると強く感じる。

特に初対面の場面においては、とかく見た目や職業といった「わかりやすいもの」に目を奪われがちだろう。その人の特徴(=バックグラウンド)はたしかに重要だが、一人の人は幾多ものバックグラウンドの掛け合わせで成り立っているということに注意したい。僕自身を例に取って「自己紹介」を試みれば、以下のようになるだろう。

「埼玉県鴻巣市出身で、公立中高出身で、剣道やサッカーをやっていて、理系のバックグラウンドがあり、北米への留学経験があって、金融機関での勤務経験があり、音楽とお笑いをこよなく愛し、アウトドア好きの母に育てられ、歴史好きの父に影響を受け、様々な人との出会いがあり...」

キリがない。この全てが今の僕を形づくっている。もちろん影響の濃淡はあれどどれも大事。それが事実だ。そんな事実を全て無視して、『ボウケンカ』としての僕を見たがる。目の前の人を理解しようともせずに、『ボウケンカ』としてのイメージを投影したがる。それは、あまりにも怠惰ではないか?

#BlackLivesMatterに寄せて

#BlackLivesMatterの問題でもこれと同じ現象が起きているだろう。確かに「黒人」としてのバックグラウンドは「個人」の形成に大きい影響を与えている。そして、それを無視するということもおかしい。

ただ、「肌の色」だけで、「人種的、文化的な特徴」だけで、差別され、射殺されてしまうのは、圧倒的におかしい。

職業で判断され「素の」自分を見てもらえない『デルモ』の「私」のように、沢山の人が「黒人差別」に苦んでいることが改めて明らかになったのだ。「夢を持った私」が人々の心を震わせてから50年近く経った今も、未だに「息ができない私」は差別に怯え震える毎日を過ごしている。

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PHOTOGRAPH FROM BULGE/STOCK.ADOBE.COM

北米に留学していた時、黒人のバックグラウンドを持つカナダ国籍の友人に「黒人だけどスポーツ全然得意じゃないんだぜ」とジョークを言われたことがある。茶目っ気と洒落っ気溢れる彼の一言には、黒人としてのバックグラウンドを持つことの誇りと、個人としての自分も見て欲しいという想いが詰まっているように感じた。

繰り返しにはなるが、「黒人」であるということは、確実にそのバックグラウンドを持つ個人に影響を与えている。その人の一部だ。でも、黒人というのはその人を形成するひと要素でしかない、ということをどうか忘れないで欲しい。それで全てがわかるわけがない。決めつけてはいけないし、無視したり軽視してもいけない。

どんな人であろうと、目の前の人を理解しようと努めること、それが大事だろう。そういう意味で、黒人差別の問題というのは、その本質を考えれば、僕たちの住む日本でも対岸の火事ではない。

友と冒険家とミスチルと#BlackLivesMatter(1)前編
■『デルモ』に歌われるように、とかく人は見た目や職業などわかりやすいもので判断しがちで、当人の想いは埋没しがち
■筆者の経験:大企業の名前だろうと冒険家という職業だろうと、周囲は勝手なイメージを持つ
■個人は幾つもの多様なバックグラウンドの掛け合わせで成り立っている
■周囲の人々は特定のわかりやすいバックグラウンドのみに注目しがち
■#BlackLivesMatterの問題の根本にあるのは、この怠惰な姿勢だろう
■看板としての特定のバックグラウンドに目をやるだけでなく、目の前の人を見ることが大切だ
■日本でも#BlackLivesMatterは他人事ではない(次回記事で詳しく)
次回の連載記事では、『友と冒険家とミスチルと#BlackLivesMatter(2)後編 #BlackLivesMatterを超えて』と題して、黒人差別問題と日本との関わりを捉えながら、日本の差別問題、マイノリティーと多様性、#BlackLivesMatterへのアクションに関して、僕の意見を述べようと思います。お楽しみに!
大きな励みになりますので、ご意見・ご感想のコメントや記事のシェアも気軽にしていただけたら、非常に嬉しいです!
どうぞよろしくお願いします。
2021年8月13日 吉田智輝

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