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【日本人初のエベレスト登頂50周年記念】30年前の5月11日に達成されたもう一つの挑戦:エベレストSEA TO SUMMIT

「人生とは自分自身が主役を演ずるドラマである」

稀代の経営者・稲盛和夫氏がこう述べたように、冒険界でも「エベレスト」という舞台において、数々のドラマが挑戦者たちによって繰り広げられてきた。

今回は『5月11日のエベレスト』にまつわる2つのドラマを紹介しよう。そして、その2つのドラマに絡む筆者のドラマも最後に触れる。僕が取り組んでいる冒険プロジェクトを知る紹介文としても、この文章を最後まで読んでもらえれば嬉しい。

日本人初のエベレスト登頂

一つ目のドラマは、日本人初のエベレスト登頂。

1970年5月11日、松浦輝夫氏と植村直己氏が、日本人として初のエベレスト登頂を果たした。ロジスティックや登山装備が現在ほど整っていない50年前の偉業である。南東稜ルート(ネパール側)からの登頂の様子は、植村直己氏本人よる著作で窺い知ることができる。

”一歩一歩登り、頂上に立ったこの瞬間をNHKから借りた16ミリカメラに収めた。私たちはうれしさのあまり、お互いに抱合ってとびあがり、喜びをわかち合った。ついに私たちは、東南陵からの登頂の重責を果たしたのだ。” - 植村直己著『青春を山に賭けて』

この日本人初の偉業は大きな脚光を浴びた。大阪万博一色だった日本中が歓喜。高度経済成長の先にある明るい未来と重ね合わせ、多くの日本人の記憶に刻まれたという。

日本人で初めて世界に14座ある8000m以上の高峰を登ったことでも知られるプロ登山家の竹内洋岳氏は、50周年メモリアルとしてエベレスト登頂を予定していたほど、日本山岳会にとっては特別な功績だ残念ながらコロナウイルスの影響で竹内さんの挑戦は延期となったが、Twitter上での#妄想登頂は話題となった。

このように実績も話題性も申し分ない「日本人初のエベレスト登頂」ではあるが、このストーリーと同じ柱「5月11日 x エベレスト」で描かれたもう一つのドラマがある。エベレストを舞台にした壮大な挑戦が、20年という歳月を経て、同じ5月11日に達成されたのだ。

世界初のエベレストSEA TO SUMMIT登頂

1990年の5月11日、Tim Macartney-Snape氏が、世界初の海抜ゼロメートルからのエベレスト登頂を果たした。

オーストラリアの登山家によるこの偉業は世界をあっと驚かせた。それまでの登山界では「ベースキャンプ」と呼ばれる拠点から山頂を目指して登り始めるのが常識だったからだ。富士山でいえば、ベースキャンプは富士山5合目。標高2300m地点の5合目から山頂(標高3776m)を目指すのが一般的な登り方である。

エベレスト登山もその例外ではない。標高5300mのベースキャンプまでは比較的アクセスもよく、この場所に物資や人を集め、登頂を目指す拠点とするのが定石だ。その常識に対して一石を投じたのが、Tim Macartney-Snape氏。驚くべきことに彼は、ベースキャンプからでなく、海抜ゼロメートル地点から歩みを進め、世界最高峰の頂上に立ってみせたのであった。

SEA TO SUMMIT”とは...山の標高を測る基準となる「海抜ゼロメートル地点(=SEA)」から、山頂(SUMMIT)を目指す登山のスタイル。

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Tim Macartney-Snape氏がエベレストのSEA TO SUMMIT登山に至った背景には面白いストーリーが存在する。

Timさんはオーストラリア人として初めてのエベレスト登頂を達成した人物だ。やや雑な説明だが「オーストラリアの植村直巳さん」と思って貰えばわかりやすい。1984年にチベット側からエベレストの登頂に成功。新ルール・無酸素という豪華なおまけ付きの偉業だ。この挑戦によって故郷に錦を飾ったTimさんを待ち受けてたのは数々の賞賛だった。彼の友人も例外ではない。

「お前はすごい」

「自慢の友だ」

そんな感嘆と労いの言葉の隙間を縫って、とある友人が口を開く。

”君は確かに立派だが、ベースキャンプの5300m地点から山の一部を登っただけじゃないか。君を含めて、まだ誰もエベレストをまともに登ったものはいない”

標高の基準となる海抜ゼロメートルから始めてこそ山をすべて登ったことになる - 誰もがこのジョークで笑ったという。気心知れた仲間と共に、苦笑いを浮かべていたTimさん。不思議なことに、その6年後に彼は、海抜ゼロメートル地点のインド・ベンガル湾に立っていた。

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1990年2月5日にインド・ベンガル湾を出発し、なんと1200kmもの道のりを人力のみで走破し、標高8848mのエベレスト頂上に到達した。5月11日のことであった。

海抜ゼロメートルからのエベレスト挑戦は、登山というよりは冒険。灼熱のインドを歩き続け、ガンジス川を泳いで渡り、ヒマラヤの渓谷を抜け、極寒の氷河地帯に至る。それはまさにどんなアクション映画にも負けない冒険ドラマ。斬新な発想と類稀なる実行力で、新しい登山スタイルの可能性を世界に示してみせたのであった。

この挑戦については、日本ではあまり有名ではない。しかし、我々にとって重要な「日本人初のエベレスト初登頂」と同じ日に、新しい冒険の可能性が示されたという理由から、もっと認知されても良いのではないだろうか。

もう一つのドラマ:SEA TO SEVEN SUMMITS 

実は、これまでの2つのドラマに加え、もう一つご紹介したいドラマがある。こちらは非常にささやかなドラマ。

それは、1990年5月11日は筆者の生まれた日であるという事実である。TimさんがエベレストのSEA TO SUMMITを達成したまさにその日だ。

エベレスト頂上でTimさんがあげた歓喜の雄叫びは、はるか東の国ジパングまで届き、埼玉の片田舎で僕があげた産声と奇跡的に共鳴した。

そんな神様の粋な計らいに運命を感じて、僕は『SEA TO SEVEN SUMMITS』という冒険プロジェクトに取り組んでいる。「海抜ゼロメートルから人力のみで七大陸最高峰に登る」ことを目指す前人未到の挑戦だ。2018年9月にプロジェクトを立ち上げてから、7つ中5つの山に海抜ゼロメートルから挑戦。うち4座の登頂に成功している。

"SEVEN SUMMITS"とは...地球上にある7つの大陸における、最も標高が高い山の総称。その全てを登頂することを、多くのプロ/アマチュア登山家が目標とする。例えば、アフリカ大陸の最高峰キリマンジャロは、SEVEN SUMMITS(七大陸最高峰)の一角をなす山である。

竹内さんがエベレスト日本人初登頂50周年の記念遠征を計画していたように、かくいう筆者も、Timさんの偉業から30周年を記念して、エベレストのSEA TO SUMMIT登山に挑戦する予定だった。残念ながらコロナウイルスの影響で挑戦は延期されてしまったが、この偉業31周年を祝う準備を今日も粛々と続けている。

これまでの挑戦では、7つ中4つの山への登頂に成功したものの、プロジェクト全体では、まだまだ「海抜ゼロメートル地点」近くにいる感覚だ。目標としている「大きな山」の頂すら視界に収められていない。ここから世界初のプロジェクト達成への道のりは決して平坦ではないだろう。現に今年予定していた挑戦は全て諦める決断をしなければならなかった。しかし、Timさんが30年前に経験したように、その道中が様々な出会い、そして感動に溢れることを楽しみにしている。

「5月11日にエベレストで」繰り広げられてきたドラマを3つご紹介した。このようなエピソードに加え、過去の冒険秘話や準備の様子もnoteで発信してゆく。この記事を最後まで読んでくださった読者の方は、僕の冒険について知り、まだ見ぬ「山頂」への道のりを共に楽しんでくだされば、この上ない喜びである。

ー「海抜ゼロメートル地点」から山頂を見据えて 吉田智輝

参考:SEA TO SEVEN SUMMITS プロジェクト SNSなど

Twitter : https://twitter.com/satoki_yoshida

Instagram : https://www.instagram.com/satoki_yoshida/

追記:この記事はもちろん今年の5月11日に公開を目指していました。それなのに1ヶ月ほど後になっての更新。「せっかくならバズらせたい」と、書けもしないのに何か大層なことを書こうとして手が止まってしまっていました。初めて書いたnoteの記事で、とにかく少しずつでも書いていくことが大切だと自分で言ったのにも関わらず...

そんな僕を再びnoteに向かわせてくれたのは、若くして病気で亡くなってしまった大学の先輩による作品です。僕が冒険を始める一つのきっかけにもなった先輩の死からもう2年が経とうとしている 。「小説を書く人のための小説」ー全てのクリエイター、挑戦する人に贈られた作品です。宜しければぜひ読んでみてください。 

R.I.P. ハワイさん。ご冥福を心からお祈りします。

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