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拝啓 蒸発した父へ。3つ目のメッセージ:2006~2010年の出来事

それぞれもがきながら、生きてきた、そんな5年間だったと思う。

こんにちは。長谷公嗣(ながやこうじ)家の、長男・長谷怜紀(さとき)と申します。
初めてアクセスする方も居ると思うので説明します。

※このnoteを見てくださる、父以外の皆さんへ(再掲)
このような話を公開して書いたのは、2000年にある日突然失踪し、今も行方不明の父・公嗣に、この20年、何があったのかを報告したいからです。
父宛のメッセージなので、よくわからない話が多いかもしれませんが、僕らは父にこのnoteを届けたいので、ぜひシェアをしていただけたら嬉しいです。
驚かれる方もいらっしゃるかもしれません。いつも身勝手な私たちで申し訳ありませんが、よろしくお願い致します。

これまでの投稿は、以下になります。全6回の投稿を予定しています。今回は3つ目のメッセージです。

お父さんへ。3つ目のメッセージを送ります。

今回は、2006~2010年に何が起きていたかを伝えたい。
2006年、怜紀は17歳・高校2年生。昂飛(たかと)は15歳・中学3年生、洋武(ひろむ)は10歳・小学4年生。

2000~2005年の簡単なまとめ

お父さんが居なくなってから、総出で探すも足取りは掴めず。
引っ越した先では、息子たちは元気に楽しく生きてきた。でも母はかなりショックを受けていて、一家心中しようと考えた事も。

そして、少しずつ変化が生まれた。
母が宗教に、より一層のめり込んでいった。
お父さんが居なくなったことは絶対に口外してはいけない、というルールができた。
ほとんどの親戚やこれまでの知人と、関係が絶たれてしまった。

そして、母は腎臓機能障害になってしまい、人工透析を受けなければならず、働けなくなった。これによって、ここから長谷家は経済的に一気に苦しくなる。なぜなら、生活保護を受給することになったから。

※ちなみに前半10年間の写真が手元に全然無くて、見たいだろうと思うんだけど、ごめんなさい。後半10年間はいくつかあるから出すよ。

長男の怜紀は、高校2年生~大学3年生の時期。

ただただ野球に明け暮れていた高校時代だった。お父さんも甲子園目指して野球に打ち込んでいたから、気持ちはわかってくれるかも。
母から毎日のように電話が来て近況を聞かれるのが嫌で、実家を離れてからも喧嘩したり、さらには電話を無視したり。

そんな中、2年生のいつからだろう。生活保護になったから仕送りが減りだして、3年生の時には仕送りが止まった。奨学金だけでは生活費が不足していたから、部活引退後に実は隠れてアルバイトした。学校では禁止されていたけど、母からも行ってきてと言われ、休日は予定無ければ基本バイトしてた。引っ越しのバイト。もう今後やりたくないと思うほど、精神的・肉体的にキツかった。

実は僕は元々、学校の先生になりたかった。お父さんと同じ社会科の。お父さんに憧れたのかな?物心付く前から漠然と思っていた。地理が大好きで大得意で、たぶん、小さい頃から家の壁に貼ってあった世界地図と日本地図が、頭の中に(今もずっと)入っているからだと思う。

進学先は、通っていた高校附属の大学を希望した。私立大学に進むことが経済的にどれだけ厳しいことか、何も知らずに。新生活に向けて、大学がある京都へ向かっているあの日、スゴくワクワクしたのを覚えている。でも、入学してから現実を知ることになる。

大学生活は、仕送り無し・奨学金を4つ借りて、アルバイトもして生計を立てた。野球も続けて、あしなが育英会から奨学金を借りれた縁で、そのボランティア活動にも参加していた。どちらも引退するまでずっと。

お父さんのことは絶対口外するな、と言われたルールを破れたのは、あしなが育英会がきっかけだった。初めて家庭事情を誰かに話せて、とてもスッキリした感情が湧いたと同時に、お互いの距離感が縮まった。一番仲良い同級生にも話したら「何でこれまで言ってくれなかったの?」と泣きながら聞いてくれた時に、オープンにならないと本当の信頼関係は作れないと学んだ大切な瞬間だった。

少しずつオープンになった僕は、慌ただしく大学生活を送る。でも一方で気づき始めた。いくらバイトをしても、一向に周りの友だちの生活水準に付いていけない。そしてお金が無いから、引け目を感じて嘘を付いて誘いを断ることも何度もあった。そうすると誘われなくなる。生き方が下手だった。
最初それが普通だと思っていたけど、どこかでしんどくなっていった。教職を目指す理由もわからなくなる。僕は本当に教職に付きたいのか?何のためにバイトして学費稼いで、大学通っているんだろうと思い始めた。

そして、ある日母に電話した。この悩みをどうにかしたくて。でも教職の道を辞めるという話から揉めて、電話を終えた。プツンと糸が切れたような感覚になった。そして3年生の秋頃から、大学にもバイトにも行かなくなり、家に引きこもった。そのまま年も越した。死んで楽になりたいと思うこともあった時期だった。

次男の昂飛は、中学3年生~大学浪人1年目の時期。

長男が抜けて三人暮らしになった実家。昂飛は音楽の方に興味がどんどん強くなって、怜紀が実家に帰るたびにCDが増えてた。文化祭でバンド組んでライブしたりしてたはず。

高校は函館ラ・サールに行った。怜紀と同じく、中部高校は避けた。高校ではJAZZ研究部に入部してたよ。学校生活は楽しかったのかな?あまり聞いたことが無い。
そう、ラ・サールの先生たちは、お父さんが居なくなったニュースは知っていた。家庭状況も理解していただいて、とても良くしてくださった、と聞いてる。

大学受験が近くなるにつれ、模試の結果が良くないからか、それがきっかけで母とぶつかることが多くなった。母には医学部に進学するように勧められていた。お母さん、よく小さい頃から子ども達はパイロットと医者になってほしいって言ってたし、その願望が強かったんじゃないかな。でもたぶん本人は、医者になろうと思ったことは一度も無いと思う。

大学受験は不合格。一浪することになった。家計が大変な状況だから、アルバイトをしながら浪人生活を送っていた。でも成績は伸び悩んで、とても苦労していた。

そういえば、昂飛は学生時代に反抗期って無かった。怜紀と違って、何でも言うことを聞いていた。母は、どんな事に置いても「はい」と言うことを聞くのが素直であって、そうしろと言い続けた。これは宗教の影響だった。怜紀はそれが嫌だし違うと思って反発し続けた。そして昂飛は本心は違うんじゃないかと、ずっと思っていた。何か我慢しているような感じがした。

それから、確かこの数年の間に、お父さんが居た頃からあった車を売った。北海道の色んなところに連れて行ってくれた車。2万円にしかならなかった。

三男の洋武は、小学4年生~中学2年生の時期。

とても楽しく学校生活を送っていた。ピッチャーをやるようになる。お父さんと同じサウスポー。6年生の時には、地区大会で優秀選手賞をもらった。一方で、家庭の変化は感じ取っていて、欲しいゲームがあっても言いづらかったり、気を遣うこともあった。

中学でも野球を続けていた。塾にも通って文武両道頑張っていた。お母さんが兄達の中学時代のテスト成績を見せ、洋武は負けず嫌いな気持ちがプラスに働いて、成績優秀だった。2年生には野球部のキャプテンになったけど、なかなか試合に勝てなくて悔しかった。それから、お母さんに生徒会に入ることが受験に有利だと言われて演説文まで作られてしまい、やることになった。

この頃から反抗期になって、そっけない返事をしたり、無愛想な態度を取ることが増えた。さらに、昂飛が浪人してから母の怒る頻度が増え、家庭内がどんどん険悪になっているように感じた。
学校にいる方が楽しくて、家での笑顔や会話が減った。自分の反抗的な態度を改めるよう、母から宗教に基づいた説教もよくされた。だけど、逆にますます反感を持つようになったり、家で笑顔を見せることもできなくなっていった。

この頃の母について。

前年の秋に体を壊してしまって、人工透析(在宅血液透析)を受けるようになった母。普段は元気なんだけど、やっぱり体力は衰えて、疲れも出やすくて、食べても吐いたりすることも多かった。

お父さんが居なくなってから、どんどんクローズな生活になっていった。本人も言ってたけど、ひっそり暮らしたいと。人間関係を作ること自体を嫌がった。今思えば、お父さんが居なくなって回りの人と関係を保てず、ほぼ一人になって改めて人間関係を作ろうとするのは、怖いしトラウマなのかもしれない。口外するな、というのは、そういうところから来ているのも理解している。一方、宗教を通じて良くしてくれる方も新しくできたりもしていた。

息子たちも、頼れる大人が近くに居なくて、母が全てだった。だから母の言うことを聞くしか無かった。母の言うことを聞かないと、何かと交換条件で制限される(例えば、携帯電話を没収されるとか、大切なものを捨てられるとか)ようになって、従うしか無い環境だった。

それが真っ当なことならもちろん良いけど、宗教が絡む強制力がより出てきていたのがこの頃かなと思う。この辺りの話は、次話以降で改めて書きます。

ちなみに、失踪して8年経つと死亡扱いに切り替えることができる。お父さんのことが大好きだから、と、お母さんは言い、切り替えていない。つまりお父さんは今も戸籍上は「生きている」。

今回はここまで。

2006年~2010年に起きたこと・感じてたことを書きました。
それぞれ、大学で、受験で、反抗期で、病気で、もがいていた頃だったなと思います。
次回は、2011年~2015年のことを伝えます。

※私たちの父・長谷公嗣のプロフィールと写真です。
昭和32年(1957年)5月1日生まれ。北海道木古内町出身。函館で育って、的場中学校→函館中部高校に通っていました。中学・高校時代は野球や陸上に打ち込んでいて、高校時代は大会奪三振記録を作ってプロ野球のドラフト候補にもなっていました。
大学は神奈川大学に進学していたと聞いています。新聞部だったはず。卒業後、北海道に戻り、社会科の高校教師として勤務。初任地は標津町で、母と出会い結婚。その後、江差町で勤務し→函館に転勤し母校に赴任。ずっと野球部の顧問でした。高校3年生のクラス担任をしていたそうですが、2000年11月に突然失踪。現在に至ります。
趣味は、レコードとウイスキーだったような。部屋にあったのを覚えています。写真はこの数枚しか持っていません。一番下左から4番目が父です。

父 写真

どうか、このnoteが届きますように!


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