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拝啓 蒸発した父へ。2つ目のメッセージ:2000~2005年の出来事

あるがまま、言う通りに生きてきた、そんな5年間だったと思う。

こんにちは。長谷怜紀(ながやさとき)と申します。
長谷公嗣(こうじ)家の、長男・怜紀と、三男・洋武(ひろむ)の二人で、このnoteを書きました。
初めてアクセスする方も居ると思うので説明します。

※このnoteを見てくださる、父以外の皆さんへ(再掲)
このような話を公開して書いたのは、2000年にある日突然失踪し、今も行方不明の父・公嗣に、この20年、何があったのかを報告したいからです。
父宛のメッセージなので、よくわからない話が多いかもしれませんが、僕らは父にこのnoteを届けたいので、ぜひシェアをしていただけたら嬉しいです。
驚かれる方もいらっしゃるかもしれません。いつも身勝手な私たちで申し訳ありませんが、よろしくお願い致します。

今回は、父宛の、2つ目のメッセージです。全6回の投稿を予定しています。1つ目のメッセージは、以下からご覧ください。

さて、改めまして、お父さんへ。

2000年11月20日。月曜日の週始め。その日は、雪が降ってたような。(実際この日函館の天気は、夕方以降34ミリの降水量で、最低気温-1.2度。たぶん雪降ってたと思うよ。)

怜紀は11歳で5年生。昂飛(たかと)は9歳で3年生、洋武は4歳。
ちなみに洋武は、今もお父さんの顔をハッキリと覚えてない。

お父さんは高校の教師で、お母さんは専業主婦。
怜紀が「行ってきます」と玄関に向かうと、まだコーヒーを飲んでいるお父さんがリビングから「行ってらっしゃい」と言ってくれたのを覚えてる。いつもと変わらない朝だった。

その日から今まで、お父さんの消息はわからなくなった。身分証も荷物も、ほぼ全てを置いて。天気が悪い中だったろうから、大変だったのでは?

僕らは「何か帰ってこないな」と思って家で待ってる一方、親戚・お父さんの友人・職場の関係者、総出で捜索していたそう。
立待岬、大森浜、赤川のダム、、市内を超えて、大沼、江差町、南茅部、当別、木古内。。この捜索記録は怜紀が書面で持っている。
行方不明になって3日後、大沼公園に似た人が居るという情報も、人違い。

そして、4日後の24日、お父さんからの手紙が新潟から届いた。今も玲子おばさんが持っている。僕たち息子3人に、それぞれメッセージの残して。
新潟なんかにツテは無かった。もちろん警察も協力してくれたみたいだけど、それ以降は完全に消息が途絶え、探すのを諦めることになった。

行方不明になって1週間ぐらい経ち、兄弟3人集められて「お父さんが居なくなった」と告げられたのを覚えているんだけど、怜紀は号泣していたらしい。僕はこれを全く覚えていない。

そして教員住宅に住んでいた僕たちは、翌年2001年4月に、同じ函館の旭岡地区に逃げるように引っ越した。湯の川を越えて、トラピスチヌ修道院がある辺り。今もお母さんはここに居るよ。

お父さんが居なくなって、このような4つの出来事があった。
①経済的に苦しくなった。
②母が宗教に、より一層のめり込んでいる。
③お父さんが居なくなったことは絶対に口外してはいけない、というルールができた。
④ほとんどの親戚やこれまでの知人と、関係が絶たれてしまった。
今はいくつか解決しているものもあるけど、この4つの影響はとても大きかった。

長男の怜紀は、小学5年生~高校1年生の時期。

6年生になって少年野球を始めた。理由は1つ。キャッチボールをする相手が欲しかったから。
お父さんとの思い出で一番楽しかったのは、キャッチボールをしている時だった。その時始めた野球は、大学卒業まで続けた。

転校してすぐに友だちもできた。同じ旭岡の中学校に進学してからは長距離走が得意になって、全道大会にも出た。お父さんも長距離走が得意だったみたいだから、DNAだなと思った。ほら、元々なかなか逆上がりも縄跳びもできなかった子どもだったし。

高校進学を控え、僕は悩んだ。野球の強い進学校に行きたい。けれど、当時の函館市内には、そう、お父さんが働いていた函館中部高校しか無かった。
母は中部高校への進学は反対した。当時の先生もまだ居るだろうしと。
僕も確かにと思った。だって、母からはお父さんが居なくなったのは職場の人間関係で悩んでいたから、と聞いていたので。(これは違っていたという話は、後日書く)

結果、札幌の高校に進学した。寮暮らしだった。
札幌の高校に行けて嬉しかった。僕は中学時代、母としょっちゅう喧嘩してた。素直に言うことを聞きなさい、と何百回も言われ続けた。早く家を出たかった。僕は自由になった気がしてた。さらに家が大変になることもわからず、実家のことを差し置いて。

次男の昂飛は、小学3年生~中学2年生の時期。

ここは、本人から何も聞けてないから、当時の心情はよくわからない。
昂飛も少年野球を始めていた。中学卒業まで続けていたよ。何で野球やりたかったのかはわからないけど、お父さんの影響は大きいと思う。
中学時代は、友だちとバンドを始めたり、音楽に興味が湧いたようで、今現在の活動にも繋がっている。

昂飛が大怪我をしたのも、この期間。自転車に乗っていた時に弾んだ拍子でバランスを崩し、内臓を傷つけてしまい、膵臓を一部切る手術をした。元気だけど、激しい運動ができなくなってしまった。

怜紀と昂飛は中学生の頃から、会話することが少なくなった。仲が悪いわけではないんだけど、何か壁ができてしまった。怜紀が思うに、一回昂飛にキツいことを言ったような気がしているのと、兄と母が喧嘩しているのを何度も見ていて、それが嫌だったんじゃないかなと思う。

三男の洋武は、4歳~9歳(小学3年生)の時期。

スゴく負けず嫌いで、頑固な性格だった洋武。でもいつも兄たちに付いてきて、兄の友だちとも一緒に遊んだりしてた。幼稚園でもその性格で喧嘩したこともあったらしい。今の洋武を見ると、喧嘩なんかとても想像できないけど。

洋武は頭が良いなと兄たちも思ってて、小学校に入学してからやっぱり勉強できるタイプだった。1年生の時に、1人で休み時間を過ごしていた時に声を掛けてくれた友だちが居て、そこから徐々に友だちが増えて、学校が更に楽しくなったそう。1人で過ごしていたっていう洋武。当時小さいながら何か思うことがあったのかも。

洋武も9歳で野球を始めた。実は洋武、お父さんと同じ左投げ。お父さんの使っていたグローブでキャッチボールさせたりしてて、自然と左投げになったんだ。お父さんの友人の国分さんから、新しいグローブもらったんだって。
野球を始めてまもなく母が体調を崩し(この後書くけど)、母が退院してから自宅療養になって、生活の変化を少し感じていた。

この頃の母について。

お父さんが居なくなって、とてもショックだったと聞いている。そして、これまで近くに居た人間関係がほとんど無くなった。
お父さんが居なくなったのは、母のせいだ、と言われたって言ってた。そして、お父さん方の祖父母・隆おじさん・玲子おばさん・知人、ほぼ絶縁状態となった。(回復するのは2012年。12年間、そんな状態が続いた。)

そして、母は「お父さんが居なくなったことは絶対口外するな」と言い、僕たちは従った。友だちに「お父さんは?」と聞かれても、「単身赴任してる」って嘘をつき続けた。
人に嘘をつき続けるのは良くないね。どんどん後ろめたい気持ちになって、結局自分の気持ちを正直に伝えることができなくなる。その頃の僕たちは、人の顔色を伺う性格になっていたし、クローズな性格だった。以後もなかなか直らなかった。

母からは、この頃、本気で一家心中しようと思っていたと聞いたことがある。怜紀との喧嘩で包丁が出てきたり、激しいぶつかり合いも多かった。
もしかしたら、僕たちみんな死んでたかもしれない。母は今もそれを言い続けている。

その母が、今もだけど心を繋ぎ止めているのが、宗教の存在。この頃はひたすらに何かしらの参加を強要させられて、僕たちは何も考えず従った。
この宗教によって、さらに母方の親戚との関係も途絶えて今もそのまま。

この頃って、たぶん貯金を切り崩して生活してたんじゃないかな。母が働いてたところって、怜紀も洋武も見たことが無いんだよね。

そんな中、2005年秋ごろに母は突然入院。母方の祖母が代わりに家事をしに函館に来た。結果、腎臓機能障害になってしまい、人工透析を今も受け続けている。つまり働けない。ここからさらに、長谷家は苦境に立たされる。

今回はここまで。

2000年~2005年に起きたこと・感じてたことを書きました。
お父さんが居なくなってまず大きく変化したのは、親のまわりの人間関係だったように思います。
次回は、2006年~2010年のことを伝えたいと思います。

※私たちの父・長谷公嗣のプロフィールと写真です。
昭和32年(1957年)5月1日生まれ。北海道木古内町出身。函館で育って、的場中学校→函館中部高校に通っていました。中学・高校時代は野球や陸上に打ち込んでいて、高校時代は大会奪三振記録を作ってプロ野球のドラフト候補にもなっていました。
大学は神奈川大学に進学していたと聞いています。新聞部だったはず。卒業後、北海道に戻り、社会科の高校教師として勤務。初任地は標津町で、母と出会い結婚。その後、江差町で勤務し→函館に転勤し母校に赴任。ずっと野球部の顧問でした。高校3年生のクラス担任をしていたそうですが、2000年11月に突然失踪。現在に至ります。
趣味は、レコードとウイスキーだったような。部屋にあったのを覚えています。写真はこの数枚しか持っていません。一番下左から4番目が父です。

父 写真

どうか、このnoteが届きますように!


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