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拝啓 蒸発した父へ。4つ目のメッセージ:2011~2015年の出来事

みんな、別々の道に進み出した、そんな5年間だったと思う。

こんにちは。長谷公嗣(ながやこうじ)家の、長男・長谷怜紀(さとき)と申します。
初めてアクセスする方も居ると思うので説明します。

※このnoteを見てくださる、父以外の皆さんへ(再掲)
このような話を公開して書いたのは、2000年にある日突然失踪し、今も行方不明の父・公嗣に、この20年、何があったのかを報告したいからです。
父宛のメッセージなので、よくわからない話が多いかもしれませんが、僕らは父にこのnoteを届けたいので、ぜひシェアをしていただけたら嬉しいです。
驚かれる方もいらっしゃるかもしれません。いつも身勝手な私たちで申し訳ありませんが、よろしくお願い致します。
これまでの投稿は、以下になります。全6回の投稿を予定しています。今回は4つ目のメッセージです。

お父さんへ。4つ目のメッセージを送ります。

今回は、2011~2015年に何が起きていたかを伝えたい。
2011年、怜紀は22歳・大学4年生。昂飛(たかと)は20歳・大学浪人2年目、洋武(ひろむ)は15歳・中学3年生。

2006~2010年の簡単なまとめ。

実家は生活保護になり、2006年頃から生活が困窮してくる。
怜紀は高校を卒業し、お父さんと同じ社会科の教諭になりたい夢も見据えて、大学に進学して京都で生活。
大学に入ってから、家庭や自分のことをオープンに話せる機会・友人に恵まれて生きてこれたけど、経済的に苦しい現実に挫折して引きこもり年を越す。弟たちも元気に生活していたけど、昂飛は大学受験勉強に苦戦。洋武は反抗期に。

母は体が弱っていったけど元気に生活していた。でも人を避けてどんどんクローズな生活になっていき、息子たちは従うしかなかった。宗教が絡む強制力も強まってきていた。失踪して8年経ったけど、お父さんの戸籍は今もそのまま。

長男の怜紀は、大学4年生~社会3年目の時期。

2005年末、引きこもって年を越した僕。家賃も滞納していて、隣に住んでいる大家さんに見つからないよう、夜だけ活動していた。大学の授業も全て行かなくなり単位は全滅し留年。大学辞めようか、生きるのが辛い、と思いながら、悶々と布団の中で過ごす日々。

1月21日夜、たまたま同級生に会って心配された。携帯電話の料金すら払ってなくて、誰とも連絡が取れてなかったからだ。その時にお金を借りて連絡ができるようになった。今もその時の領収書は、財布の中に入っている。

1月24日夕方、テレビの音に大家さんが気づき、階段を駆け上がって来て玄関からドンドンと凄まじいノック音が鳴った。マズい、どうしよう。と思っていると、階段を降りる音。その後すぐにまた上がってくる足音が聞こえ、玄関のノブが動いた。マスターキーで鍵を開ける音。観念して玄関に行った。

「お前何してんねん!」と怒鳴られ、僕は謝り、家賃今月中に全額払いますと言った後、大家さんは戻っていった。僕は膝から崩れ落ちて泣いた。その時に「ここがドン底だ。もう這い上がるしか無い。」と思えて脱却できた。すぐ友人に連絡してお金を貸してほしいと頼み、家賃を支払い、早々に引っ越した。
この時、僕は色んな方々に支えられて生かされているんだと思った。一人だと死んでた。元気に頑張っている姿を見せて恩返しし続けないといけない、という気持ちが、僕が仕事を頑張れている原動力。だから仕事人間なんだ。

復活し、もう嫌だと思っていた引っ越しのバイトや夜勤のバイトをしながら、急いで生活を立て直した。大学の単位もそれ以降、全て取り直した。みんなの支えのおかげで卒業までこぎ着けた2012年の夏、最後の学費支払い。いつも学費をどうするか母と計画立てていたんだけど「どうせ卒業できないんでしょう」と言われてしまい、支払い1週間前に学費全額を用意しないといけなくなった。

この時、(母のところでなぜ関係が復活したか書くけど)おじさんとおばさんと12年ぶりに会うことができたタイミングだった。おじさんの家までの道を思い出して住所を割り出し、「104」で電話番号検索して、直談判して支援をお願いして、何とか卒業することができた。今もずっと感謝している。

大学生活は苦しかった。卒業後は僕は早くバリバリ働きたくて、4月入社のところを1月入社にしてもらって、東京で勤務。入社後、一時期体を壊したこともあったけど、常に前向きに人生を送れたかなと思うよ。大学生活の方が濃すぎるので、とりあえず元気だったし、社会人期間は割愛。大学卒業式の写真がこちら。わかるかな?付けてるネクタイとタイピン、お父さんの物です。

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次男の昂飛は、大学浪人2年目~社会人2年目の時期。

見出しの通り、浪人1年目の受験は上手くいかなかった。受験が終わって数日経ってから、家族に何も伝えずに「東京へ行きます。ありがとうございました。」という手紙を残して、家出をした。

東京の友人のところに居たのがすぐ掴めて、何とか連絡が取れた。しばらくしてから函館に戻り、お母さんと話し合って二浪をすることに。ずっと医学部を勧められていたが、諦めて他の分野を目指すことになった。

浪人2年目もアルバイトをしながら勉強の日々。家出の件もあったからか、1年目の時よりもお母さんとの軋轢は減ったみたいだった。国公立しかダメと言われていたから、何も考えず私立に行った怜紀をどう思っていたかはわからない。そして、2浪目の受験、秋田大学の工学資源学部(たぶん)に無事合格することができた。

大学入学後も音楽活動も続け、軽音楽部に入部。夏休み・冬休みは函館に帰省していた。でも2年生になってから、授業にあまり出席しなくなった。結局一旦休学をすることに。ここは記憶が曖昧なんだけど、一度復学したんだけど、結局半年後、休学したか、休学せずに退学した。退学するかどうかの時に本人と色々話したけど、大学に行くこと自体に意味を見い出せていなくて行けてない様子だった。結局大学を辞め、フリーターとなった。

フリーターとなってからも音楽が好きで、バンド活動や楽曲制作もしたり、足枷が外れて自由にやれてるような雰囲気だった。昂飛が東京に来た時に何度か怜紀と会っていて、歌舞伎町のライブハウスでやってるところも一度見たことがある。スゴく楽しそうにはしゃいでて、あんなに笑顔なのは初めて見た。その日の写真がこれ。

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三男の洋武は、中学3年生~大学浪人1年目の時期。

実家では昂飛が浪人中の横で、洋武も受験のシーズンに入った。洋武の反抗期は続いていて、テストの点数が悪いと怒られるからと、お母さんの機嫌を気にしながら過ごす日が増えていた。そんな中、昂飛と洋武は2回、大きなぶつかり合いをする。1回目は夏頃、国語が苦手で点数が良くないことを母に指摘され反抗的な態度を取っていたところ、その様子を嗅ぎつけた昂飛が、洋武の頭に突然コーヒーを掛ける。

2回目は別の日、この時も母から怒られていて「もうこんな生活いやだ!」と叫んだら、それを聞きつけた昂飛に顔面を殴られた。そのまま雨が降っているベランダに引きずり出されて鍵を閉められた。泣きながら隅で体育座りをしていた時、「ここから飛び降りて死んでしまおうか」と一瞬思いながらも、ただうずくまっていた。

しばらくしてリビングに呼び戻されたが、自分の態度が原因だと責任を負わされた。昂飛からも謝られなくて「神様は見ている、反省しなさい」と長時間お祈りをさせられた。コーヒーを掛けられた時も同様だった。内心、何のためにしているのか、それで変わるわけがないだろうという違和感を持ちながら、お祈りをしていた。この件は、最近になって思い出したことだったって。ずっと記憶に無くて、怜紀が思うにはとても辛かったんじゃないかな。

高校は、お父さんの母校、函館中部高校に行くことになった。そして、お父さんの姿を追うように野球部に入りピッチャーとして活躍することになる。お父さんの奪三振記録は、洋武の中で密かな目標とモチベーションになっていた。洋武は体が細くて、まわりからとにかく食べろ、体重を増やせと強く言われていた。そのプレッシャーから、食事が喉を通らなかったり、吐いてしまうことが何度もあったそう。これは家に帰っても同じだった。

それでも頑張って試合に出続けて、公式大会で有斗高校相手に投げたり、怪我を抱えながらも完投したり、お父さんと同じくエースナンバーももらって頑張っていた。3年生の時には、全て野球のためにみんなでやり切ろうと団結して行動したけど、残念ながら大会で勝つことはできず、悔しい結果のまま引退した。最後の大会、玲子おばさんも観に来てくれたよ!

高校入学してからは母と二人暮らし。野球で朝早く夜遅く行き来する生活で、弁当を毎日作ってもらっていた。野球部でお金が掛かるところは家計に負担になっていると思い、申し訳ないなと感じていた。そして、昂飛は気遣いしてちゃんと手伝いができていたから、僕もやらなければと思うようになった。

勉強は全然してなかったから、部活引退後に遅れを取り戻すのが大変だった。当時は、英語が得意で、野球を教えたいという思いもあって、英語の教員になろうと考えた。兄たちも外に出ているのを見ていたり、自分も実家を離れて伸び伸びと暮らしたいと感じ、函館を離れたいと思っていた。だけど弘前大学を目指すも不合格。悔しくて涙を流した。浪人することに。

浪人中は昂飛と同様、アルバイトしながら自宅浪人で次の受験を目指していた。あ、投げてる写真があったから見せます。ユニフォーム、お父さんの時代と変わってないのかな?だとしたら懐かしいよね。

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この頃の母について。

体の調子はそこまで変わりなく、弱っていたけど元気そうだった。何かあるとお祈りして助けを求め、宗教には変わらず積極的だった。「私達が今こうしてそれぞれに生きて生活していられるのは、当たり前の事ではない。どんなに辛い道でも今の私たちの生活は神様から見て一番いい道だと言う事なんですよ、それを覚えておいて下さい」とはお母さんから何度も言われた言葉。

昂飛・洋武それぞれ進学した辺りから、怜紀にお金を貸して欲しいと連絡来ることがかなり増えた。詳細はわからないが、お父さんが失踪してからブラックリストになっていると言われている。怜紀が貸したお金が戻ってこないことも多々あった。お金の問題はこの後もずっと続いた。

そんな中、2012年5月、隆おじさんから突然実家に連絡が来た。お父さんの父母、僕らの祖父母が亡くなっていた。祖父が数年前に亡くなり、祖母が3月に亡くなった。今後どうするか話さなければならず、会いませんかと連絡が来たのだ。

お母さんは、考えさせてくださいという回答だった。これまで色々あって臆病になっていると言った。怜紀は、この機会はとても大事で改めて前へ進めるじゃないかと思うと伝えた。結果的にはおじさん・おばさんの方から「これまで申し訳なかった」と再度連絡が来て、お盆に息子たちも帰省して12年ぶりに会った。お線香もあげてきた。今も行ってるよ。

お盆後、先に書いた怜紀の学費の件、母はどこから学費を用意したのかは未だに知らない(教えてない)。卒業すると知り、京都へ卒業式に来たいと言われた。僕は嫌だった。でもせっかく来るなら大学時代何があったか全て打ち明けようと思って話した。母からは遊んでばかり、怠けて大学行かなかった、と思われていたからだ。その時に、お互いこれまで何があったか膝を突き合わせて話した。

それでしばらくは理解し合えた。怜紀とは相変わらず衝突があったけど、酷さは落ち着いた。お母さんは安心した仕事に就いてほしくて怜紀に公務員になって欲しいと、就職してもずっと言っていた。そうすれば長男が近くに戻ってくることにもなる。不安の裏返しなのはわかっていたけど、でも言う通りにはしなかった。

最後に、祖父母の家でお父さんの残した物を一緒に整理したことがある。昔の写真もたくさん見せてもらった。その時に、当時使っていたネクタイとタイピンを受け取ったんだ。今は怜紀と洋武が大切に持ってるよ。

今回はここまで。

2011年~2015年に起きたこと・感じてたことを書きました。
みんな、葛藤しながらもそれぞれの道に進んでいった頃だったなと思います。
次回は、2016年~2020年現在までのことを伝えます。その後に、ここに来てわかった事実や、現在考えていることを、最後のメッセージとして送ります。あと2回の発信です。

※私たちの父・長谷公嗣のプロフィールと写真です。
昭和32年(1957年)5月1日生まれ。北海道木古内町出身。函館で育って、的場中学校→函館中部高校に通っていました。中学・高校時代は野球や陸上に打ち込んでいて、高校時代は大会奪三振記録を作ってプロ野球のドラフト候補にもなっていました。
大学は神奈川大学に進学していたと聞いています。新聞部だったはず。卒業後、北海道に戻り、社会科の高校教師として勤務。初任地は標津町で、母と出会い結婚。その後、江差町で勤務し→函館に転勤し母校に赴任。ずっと野球部の顧問でした。高校3年生のクラス担任をしていたそうですが、2000年11月に突然失踪。現在に至ります。
趣味は、レコードとウイスキーだったような。部屋にあったのを覚えています。写真はこの数枚しか持っていません。一番下左から4番目が父です。

父 写真

どうか、このnoteが届きますように!


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