拝啓 蒸発した父へ。最後のメッセージ:息子たちより
居なくなって20年近く経った。1%でも生きてる可能性があって、0.1%でも読んでくれる可能性があると思って、書き続けた投稿。今回が最後のメッセージです。
こんにちは。長谷怜紀(ながやさとき)と申します。
長谷公嗣(こうじ)家の長男・怜紀と、三男・洋武(ひろむ)の二人で、このnoteを書いています。
初めてアクセスする方も居ると思うので説明します。
※このnoteを見てくださる、父以外の皆さんへ
このような話を公開して書いたのは、2000年にある日突然失踪し、今も行方不明の父・公嗣に、この20年、何があったのかを報告したいからです。
父宛のメッセージなので、よくわからない話が多いかもしれませんが、僕らは父にこのnoteを届けたいので、一番下からシェアをしていただけたら嬉しいです。
驚かれる方もいらっしゃるかもしれません。いつも身勝手な私たちで申し訳ありませんが、よろしくお願い致します。
これまでの投稿のリンクは以下からどうぞ。
これまでのメッセージのまとめ
20年、色んなことがあり過ぎて全くまとめようが無いけれども、紆余曲折しながらも、みんなちゃんと生きてこれてる。息子たちは社会に出た。少なくとも怜紀と洋武は、お父さんが居なくなったことを、今日悲しんだり恨んだり悲観したりしていない。とても前向きだ。
最初の5年は、あるがまま、言う通りに生きてきた。
次の5年は、それぞれもがきながら、生きてきた。
その後の5年は、みんな別々の道に進み出して、環境も変わった。
最後の5年は、息子たちはみんな自立していった。でも結局、母含めて、家族内バラバラになってしまった。
もう一度謝りたい。家族で仲良くできなくて申し訳ない。
そして今回、お父さんへ最後に伝えたいメッセージは3つ。
①お父さんが居なくなった理由
②この20年振り返って、僕たちはどう思っているか
③お父さんへのメッセージ
この3つを、今一緒に居る怜紀と洋武から伝えます。
何で一緒に居るかというと、怜紀がコロナ禍で東京から天草に戻れなくなっていて、怜紀と洋武は、洋武の家をシェアして生活している。仲良いでしょ?
最後に伝えたいこと:1つ目
1つ目は、お父さんが居なくなった理由について。
僕たちはお母さんから、お父さんは「職場の人間関係で悩んでいた」と聞いていた。それが原因で失踪したんじゃないかって思って生きてきた。
でもどうやら違うかもと、最近わかってきた。おばさんが教えてくれた。
お父さん、職場では楽しく過ごしていて、そして関係性も良かったって。野球部の部長だったけど、次の年には監督が内定していたことも聞いた。自分の母校に赴任することができて嬉しかっただろうし、監督になって自分が届かなかった甲子園に行く夢、叶えたいと思っていたんじゃないかな。
それから、これは怜紀も洋武も本当に記憶が曖昧なんだけど、居なくなる前日、両親は今まで一番の大喧嘩をしてたような覚えがある。失踪の経過手記では大きな衝突までは書かれていないけど、でも書いてる内容の節々と喧嘩の内容の記憶がどうも重なるんだ。前日の喧嘩が決め手になっちゃったのかなって。
それから僕たちは、お父さんが居なくなったことによって、お母さんは宗教が心の支えになったと思っていたけど、実はずっと前から宗教の存在やトラブルはあったんだね。怜紀が幼稚園の頃から。
失踪後に来たお父さんからの手紙、お母さん宛のメッセージが無かった。何か思うところがあったのかな。今怜紀は大人になって、少しはお父さんの立場が理解できるような気がしてる。だから、もし連絡をくれた時は、しっかり受け止める。
最後に伝えたいこと:2つ目
2つ目は、この20年振り返って、僕たちはどう思っているかについて。
怜紀と洋武の二人からしか伝えられないけど、この投稿を続けて、改めて振り返ってみた。
怜紀はね、本当に!最高の人生!!だと思ってる。
僕はお父さんに、何から何までやってもらって、それが当たり前で甘え過ぎていた。そのまま成長していたら、ロクな人間にならなかったと思う。
今まで一度もお父さんを恨んだことが無い。でも寂しいと思ったことも無い。帰って来ないと聞いて号泣したのを覚えてないあの時に、すっぽり感情が抜け落ちたような気がする。もし会ったら、色んな感情が戻ってくるのかもしれない。
母には、友達がいないと一人では鬱病になるようなひ弱な人ですからね、と言われたこともある。決してそうではないけど弱いかもしれない。でも「友ある者は決して失敗しない。」とは、映画「素晴らしき哉、人生!」の言葉。僕はお父さんがくれた人生を、友に限らず、関わる人を大切にして、恩返しして生きていきたい。
次は洋武から。まず、僕はお父さんに謝らなきゃいけない。
子供を置いて出て行くなんて無責任だって僕は思ったことがある。自分が置かれた環境を受け入れたくないと、わがままな気持ちになったこともある。でもこれって、お父さんの出て行った気持ちを考えると、ひどいことだったんじゃないかと思う。ごめんなさい。
今は社会人になりたてだけど、これまでのことを受け入れてるし、前に進もうという覚悟も持ってる。僕なりに考えて、僕が正しいと思う人生を歩んできた。怜紀、玲子おばさん、隆おじさん、他にも本当にたくさんの人に助けられたし、つながりもできた。僕はこれまでの人生を決して無駄にせず、人との関わりを大事にしながら、これからも生きていくよ。
最後に伝えたいこと:3つ目
3つ目は、お父さんへのメッセージについて。これは怜紀と洋武一緒に。
家族を置いて出ていく相当の覚悟があったんだと思う。出ていきたかった事情も、何となくわかってきた。
だから僕たちからは探さない。探して見つけても、お父さんの覚悟が変わってないのなら、それは会えてもハッピーじゃないと思っている。
お父さんが居ない事実は、随分前に受け入れている。だからこそ最初に伝えたように、もし生きていたとして、会えても会えなくても、どっちでも良い。亡くなっていても、受け入れるしかない。お父さんに責任を負わせるつもりも全くないし、僕たちのことは大丈夫だから、心配しないで。
結局こんなメッセージを送っているのは僕たちの勝手だけど、この問題をモヤモヤ思い出すのは止めて、僕たちは僕たちでケジメを付けないといけないと思った。少しでも動きがあればと思って、僕たちは協力してこういう形で動いてみた。それが僕たちの覚悟でもある。ただもしこのメッセージを見つけて辛い・苦しいと思わせていたら、申し訳ない。
お父さんが動けば、もうメッセージは届くと思っている。驚くほどたくさんの、僕たちを応援してくれる皆さんが、情報拡散に協力してくれた。
これまでのメッセージはどんな形であれ、お父さんに届くんじゃないかと信じている。叶わなかったとしても、受け入れる覚悟も僕たちはできている。
最後に、少しでも会いたい気持ちが湧いたら連絡をください。ここかここに。連絡が来たことは、怜紀と洋武の二人だけの秘密にして、誰にも言わないから安心して。では!
結びに。皆様への感謝。
僕たちの突拍子もない勝手な行動に、貴重なお時間を割いて投稿を読んでいただき、たくさんの応援のメッセージ・いいね・シェアやリツイートをしてくださり、本当にありがとうございます。感謝してもしきれません。
重たい話ばかりを綴って申し訳ございません。心配してくださる方もたくさんいらっしゃいますが、僕たちは今回のメッセージで書いているように、全て受け入れて、悲観せず、元気に楽しく前向きに毎日を生きています。それもこれまでたくさんの方々が関わってくださったから、今日があります。怜紀も洋武も、素敵な人生を送れていると思っています。
父へ伝えた通り、僕たちは探して見つけ出そう、ということをするつもりはありません。見つけて会うことが、必ずしも良い方法だとは思っていないからです。
メッセージが届き、気持ちが伝わった時に、初めて何かが起こるかもしれません。
ですので、僕たちができることは、伝えること。これを精一杯やろうと決めて書いた次第です。インターネットの力を信じましょう。今後は一旦、気長に待ちます!
末筆ではございますが、これからも皆さんに元気な姿を見せ続けて、頑張っていきます!
本当に本当に、ありがとうございます!!
私たちの父・長谷公嗣のプロフィールと写真です。
昭和32年(1957年)5月1日生まれ。北海道木古内町出身。函館で育って、的場中学校→函館中部高校に通っていました。中学・高校時代は野球や陸上に打ち込んでいて、高校時代は大会奪三振記録を作ってプロ野球のドラフト候補にもなっていました。
大学は神奈川大学に進学していたと聞いています。新聞部だったはず。卒業後、北海道に戻り、社会科の高校教師として勤務。初任地は標津町で、母と出会い結婚。その後、江差町で勤務し→函館に転勤し母校に赴任。ずっと野球部の顧問でした。高校3年生のクラス担任をしていたそうですが、2000年11月に突然失踪。現在に至ります。
趣味は、レコードとウイスキーだったような。部屋にあったのを覚えています。写真はこの数枚しか持っていません。集合写真の一番下左から4番目が父です。
どうか、このnoteが届きますように!
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