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拝啓 蒸発した父へ。5つ目のメッセージ:2016~2020年現在までの出来事

長編になっている父への手紙も、今回で5つ目になり、やっと現在に来ました。
こんにちは。長谷公嗣(ながやこうじ)家の、長男・長谷怜紀(さとき)と申します。

※このnoteを見てくださる、父以外の皆さんへ(再掲)
このような話を公開して書いたのは、2000年にある日突然失踪し、今も行方不明の父・公嗣に、この20年、何があったのかを報告したいからです。
父宛のメッセージなので、よくわからない話が多いかもしれませんが、僕らは父にこのnoteを届けたいので、ぜひシェアをしていただけたら嬉しいです。
驚かれる方もいらっしゃるかもしれません。いつも身勝手な私たちで申し訳ありませんが、よろしくお願い致します。
これまでの投稿は、以下になります。全6回の投稿を予定しています。今回は5つ目のメッセージです。

お父さんへ。5つ目のメッセージを送ります。

今回は、2016~2020年現在までに何が起きていたかを伝えたい。やっとここまで来ました。
2016年、怜紀は27歳・社会人4年目。昂飛(たかと)は25歳・社会人3年目、洋武(ひろむ)は20歳・大学1年生に。

2011~2015年の簡単なまとめ。

怜紀は紆余曲折あったけど何とか大学卒業して東京で就職。元気に社会人生活を送ることができた。昂飛は苦労して大学入学するも、退学してフリーターになった。今までで見たことない、とても楽しそうな姿があった。洋武はお父さんの後を追うように同じ道へ。中部高校に入学し、野球部のエースになった。受験不合格で浪人することに。
母(というか実家)は、お金の問題がより出てきた。父方の祖父母は亡くなっていた。でもおじさん・おばさんと12年ぶりに再会して関係修復した。家族内も関係良くなってきて、みんな、葛藤しながらもそれぞれの道に進んでいった頃。

長男の怜紀は、社会人4年目~の時期。

仕事中心の生活を送っている中、将来何がしたいか考えた時に、何となく育った函館に貢献したいという気持ちが強くなってきた(その時はハッキリ理由がわかっていなかった)。そのためにはもっと力を付けないと、と思っていた中で、地域活性化を自分で実践しながら学ばないといけないと考えた。

でも函館にはそういう仕事の募集は無くて、その時見つけたのが熊本・天草での仕事。九州に縁もゆかりも無かったんだけど、面接で天草に滞在した5時間ぐらいの間で、街の人に親切にしてもらったり、キレイな海があって、良いところだなと直感した。面接に受かると思ってなくて、次の日合格の連絡が来た時に生きてきて初めての身震いをした。人生が変わると思った。

天草って函館と実は似てて、自然豊かで、産業構造は近しいし、歴史・文化もリンクするところがある。みんなとても良くしてくれている。だから天草にも恩返ししたくて、会社を興した。今はたくさんの繋がりやご縁ができて、あちこち飛び回ることも多くなった。

天草行ってから気付いた、函館に貢献したい理由。それは、僕が大学卒業する時におじさん・おばさんに学費を工面してもらった恩返しがどうしてもしたいからだと気付いた。函館に帰ろうとは全然考えてないんだけど、できたら今年中に函館に関する仕事をしたいと思っている。もっとレベルアップしないと。

怜紀の話はこんなところ。この直近5年で家族との関係がどうなったかは、洋武と母の箇所で書くね。

次男の昂飛は、社会人3年目~の時期。

正直詳しくわからない。連絡しても繋がらないことも多かった。大学時代からお付き合いしている彼女さん(怜紀は会ったことある)と、今もずっと一緒に居るのはわかっている。ライブハウスやコンビニでバイトしながら生計を立てつつ、音楽活動にも引き続き熱心に取り組んでいるみたい。

昂飛は実家によく帰省していた。お母さんの言うことをちゃんと聞くし、そしてお母さんのことを一番考えているのは今も昂飛だと思う。洋武と函館のイベントに参加することもあった。その時の写真がこれ(2017年の夏)。

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2018年の秋、昂飛が死にたいと言っている、と母から怜紀にメールが来た。祈って応援してあげてと。祈ってるだけじゃダメだと思って、昂飛に直接連絡した。同じ冬、兄弟3人は函館に帰省した。その時には元気な様子になっていた。昂飛は洋武に「自分はこれまで母にたくさん迷惑をかけてきたから、親孝行として定期的に帰省したり、宗教の手伝いをしている」と言っていた。これまで複雑は想いを何度も抱えてきたんだと思っている。

でも今は怜紀・洋武とは連絡が取れない。その理由は洋武のところで書く。

三男の洋武は、大学1年生~新社会人の時期。

浪人中だった洋武は、弘前大学への再チャレンジで見事合格。1年前の悔し涙が嬉し涙に変わった。奨学金を2種類借り、授業料免除も受けることができて、大学に通った。野球はサークルでボチボチやるぐらいになった。

1年生の夏休み、人文系の学部だったから、読書をしようと思い、せっかくなら自分のためになる本を読んで自分を変えたいと考えた。読んだ本には「人生は波があった方が良い」と書いてて、その方がおもしろそうと感じた。そして、もっと自分の意思に正直になって、自分の人生・自分で物事を決めようと思った。入学手続きや奨学金まわりも母任せにしてたので、しっかり自律しようと思えたきっかけが読書だった。今も読書が一番の趣味。成人式の頃、母との写真がこれ。

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1年生の終わり、今後の進路をどうするか改めて考えた時に、自分は教職に本気でなりたいという意思がないことに気付いた。お母さんは「教員は安定していて、そのために大学へ行かせたのに、ダメだ」と言い、隆おじさんに説得をお願いした。でもおじさんは「やりたいことをやればいい」と言ってくれて、母も妥協した。

2年生の終わりには、ニュージランドに留学した。これもお母さんから始め「教職付かないならダメだ」と言われたけど、説得して春休みの1ヶ月間行くことができた。

3年生の夏休み、当時は地方で働こうと考えていたためインターンに応募し、全く縁の無い長野県塩尻市に40日間滞在しながら参加した。このインターンがきっかけで、マーケティングやITに興味を持ち、東京で働いてスキルなどを身につけたいと思うようになった。就活では希望通りの業界で東京で内定をもらうことができて、この春めでたく入社した。

怜紀から見ていて、兄二人と違って、洋武は学業はしっかり取り組んでいて勤勉で真面目。真っ直ぐで優しいよ。色んなサークルや活動・ボランティアにも携わって、充実した大学生活を送っていた。しかし、4年生になる前に、大きな問題が発生する。

大きな問題とは、洋武の奨学金がお母さんの懐に入ってしまっていただろうということ。
発端は、洋武の就活にお金が必要になり、母が管理していた奨学金から捻出しようとした際に具体的な残額は教えてもらえず、怜紀から借りなさいと言われたこと。困った洋武は怜紀とおばさんに相談し、怜紀と一緒に残額を計算したところ、少しという言葉では収まらないほど余裕があるはずだとわかった。

これはおかしいと率直に伝えるも、洋武はお母さんに逆上されてしまう。おばさんが直接会って間に入ってくれるも、計算とズレがあり、事実と違う話しか出てこなかった。結局必要な分はお母さんが昂飛と祖母から借りて洋武に渡してきたため、事情を昂飛に伝えお金を返したいと連絡したところ、「もうあんたたち二人は兄弟だと思いたくないし、一生関わりたくない」と返事が来て、洋武と、なぜか怜紀も、それ以来昂飛と連絡が取れなくなってしまった。

自分の元に奨学金が来るようにすぐ手配したけど、結局この問題は真相がわからないまま。卒業式にお母さんが弘前まで来たので、その時にこの件について再確認したけど「気持ちを切り替えなさい」と言われただけだった。

色々あったけど、夏休みにはおばさんの家に泊まらせてもらって、お父さんの話を色々教えてもらった。4年生の後半は後輩の就活支援に携わったり、ゼミのイベントに奔走したり。卒論は、年末年始でも一歩も外に出ずに、ひたすら論文を書いていた。とても素敵な教授の元でたくさん学べた。卒業して東京に引っ越して現在、企業研修を受けている真っ最中だ。

この頃の母について。

2015年の終わりには、平和になったなと思っていたけど、2016年の冬、息子たちみんなが帰省していた時、怜紀とお母さんが衝突する。原因は宗教についての意見のぶつかり合い。

大晦日にも関わらず、怜紀とお母さんは4時間、話をした。お父さんが居なくなってからの経緯・出来事・思っていたこと、お母さんの話を聞いた。そして宗教は、私に必要なんだと訴えた。怜紀は、宗教が悪いことだとは一度も思っていない。もはやお母さんから切り離せないし、それがあって生きてこれたんだよねと理解してる。

お母さんは、家族の幸せのため・もっと言うとお父さんが帰ってくるようにと、宗教を通して願っている。自由に活動して良い。でも現実的な性格の僕は、強要しないで欲しかった。何年も経ったけど、お互いやっと、心から気持ちを全て伝えて理解して、お互いに認め合おうと約束した。

約束し合ったはずだったんだけど、2年後の冬、結局強要されて揉め、怜紀はお母さんとの連絡を断絶した。これまで来たメール・手紙を読み返したけど、お金と宗教の話しか無くて、既にお母さんと関わること自体が大きなストレスになってしまっていた。変わるって期待するのはもう止めようと思い、距離を取って今もそのまま。

家族で仲良くできなくて申し訳ない。結局バラバラになってしまった。

何があったかの経緯はここまでで全部。でもまだ次回伝えたいことがある。

2016年~2020年に起きたこと・感じてたことを書きました。
息子たちはみんな自立していった。でも結局バラバラになってしまって、今に至ってます。
最後の次回に伝えたいことは、大きく3つ。

①お父さんが居なくなった理由
②この20年振り返って、どう思っているか
③お父さんへのメッセージ

この3つを、今一緒に居る怜紀と洋武から伝えます。次が最後の発信です。

※私たちの父・長谷公嗣のプロフィールと写真です。
昭和32年(1957年)5月1日生まれ。北海道木古内町出身。函館で育って、的場中学校→函館中部高校に通っていました。中学・高校時代は野球や陸上に打ち込んでいて、高校時代は大会奪三振記録を作ってプロ野球のドラフト候補にもなっていました。
大学は神奈川大学に進学していたと聞いています。新聞部だったはず。卒業後、北海道に戻り、社会科の高校教師として勤務。初任地は標津町で、母と出会い結婚。その後、江差町で勤務し→函館に転勤し母校に赴任。ずっと野球部の顧問でした。高校3年生のクラス担任をしていたそうですが、2000年11月に突然失踪。現在に至ります。
趣味は、レコードとウイスキーだったような。部屋にあったのを覚えています。写真はこの数枚しか持っていません。一番下左から4番目が父です。

父 写真

どうか、このnoteが届きますように!


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