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失恋から始めるわたしのはじめかた㉚~第三章・成長~

ここまでの話
🌸第一章(①~⑬)社会人から大学院生になるまで(スタートライン)
26歳、自己肯定感が低く恋愛依存の私はW失恋してボロボロになり、自分の心の穴を発見し、心理学に出会う。もっと勉強し臨床心理士になりたいという目標を持ち、仕事をしつつ大学院受験に挑戦。そして、6年間務めた検査技師の仕事を退職して、東京の大学院へ入学する。

🌸第二章(⑭~㉒)大学院時代(気づき)
学校の相談室で二週間に一度カウンセリングに通い自分と向き合った。祖母の死を経験し、好きなものに好きと言える自分になろうと決意。そして、幼い頃から夢だった女優に挑戦することが自分の人生を生きなおすことではないかと考え女優を志す。しかし、芸能事務所に入ったものの、時代はコロナ真っただ中。

🌸第三章(㉓~)大学院卒業後(成長)
仕事は非常勤、女優活動も恋愛もうまくいかない。私は社会的価値観が自分にないように感じた。でも、私は着実に成長して、人に迷惑がかけられるようになり、自分のためにお金と時間が使えるようになってきた。しかし、完璧主義なわたしは自分の成長には目を向けられずマイナスばかりを気にしていた。睡眠に影響が出始め、苦しさと孤独から家族の愛を求める。しかし、祖母の葬儀で誰も守ってくれないのだと改めて気が付かされることになった。

前回の続きから↓

祖母の葬儀の騒動で気が付かされたことは、「親はやっぱり私を傷つける存在で、どうせ守ってくれない、裏切れられる。」という事だった。

見かけ上いい家族で、はたから見ると「とても仲が良く幸せそうな家族」で、私もそれを維持するために注力してきたけど、見えている家族像に自らが騙されてはいけない。幻想を信じてはいけない。

見かけ上の家族を信じて自分を傷つけるのは、もうやめよう、と思った。

でも、きっと、本当に騙されたかったんだと思う。

どれだけ何があっても自分の中には最終的に帰れるところが欲しかった。
傷ついてボロボロになった時、ここがあると思いたかった。

家族を失ってしまったら、私はとうとう一人ぼっちになってしまう気がしていた。過去の虐待、偽りの設定上の家族ごっこで、自分の家がおかしいことは重々わかっていた。分かっていても、縁を切れないのは、一人になるのがどうしても怖くて、そんな自分を認めることが出来ないからであろう。

幼い頃から、この家族が自分の安全基地だと信じて、思い込んで、辛いことも苦しいことも乗り越えてきたのだ。
家族が好きだという前提を、私は私だというアイデンティティくらいに刻んできた。それを捨てるのは自分が自分でなくなるくらいにしんどい。

でも、私は私を始めなおそうと動き始めてもう5年がたっていた。
もう夢は醒めつつある。
いつまでも夢を見ているわけにはいかず、もう気が付かなきゃいけないタイムアウトが近づいているのは、分かっていた。
親は私を傷つけていい存在だと思っていて、守ってくれないことに気が付かなきゃいけなかった。苦しかった・・・。

どこかでまだ、親は私たちのことを心から愛していて、常に私たちの幸せを願ってくれていて、いつでも私を守ってくれる、そう思いたかった。

また、祖母が亡くなってから、祖父が心配になり、私はほぼ毎日祖父に電話をかけていた。

祖父は昔は祖母に対してひどい扱いをしていたが、祖母が認知症になってからは誠心誠意祖母のケアに当たっていた。祖母のことがとても愛しているのが分かった。それは祖母も同じで、私たちにはあれだけ祖父のことが嫌いだと言っていたのに、ボケ始めてから「おじいさん、おじいさん」と何かにつけて頼るようになり、両親はびっくりしていた。

長年連れ添った夫婦ってわからないものだ。喧嘩しつつ一緒にいるという事はやっぱり何か通じるものがあるのだろう。

祖母が死んで、祖父がすごく落ち込んでいるのが、目に見えてわかったため、私は祖父までいってしまわないよう、毎日電話をして調子を尋ね元気を確認した。
祖父「今日も、元気0パーセント。」
と答える時が多かったが、それくらい辛いよね…と受け止めた。
心理士になった私だからこそできることだと思っていた。

それを親は「おじいさんへのポイント稼ぎ」と私に言った。

その時、ある計画が家族の中で浮上していて、祖父に大きな買い物をしてもらうために、うちの両親がたびたび東京へやってきていた。

そのために私が祖父のご機嫌伺いをしていると、両親が言うのだ。

私は純粋に祖父が心配で、心理士になった私が祖父にできることをしたかった。しかし両親は祖父のことが苦手で、私も祖父のことが苦手と思い込みたいようだった。

両親は常に祖父の悪口を私たち兄妹に言う。
私は何度も、「私はおじいちゃんのこと好き」と言ってきた。
しかし「一緒に住んどらんお前にはわからんよな。本当に大変なんだぞ」と言って、またすぐに悪口を言い始めるのだ。「もうおじいちゃんの悪口聞きたくない」と言っても「聞いてくれよ」と言って聞かせてくる。

なぜか私たちがおじいちゃんの事が好きなのを、許してくれないのだ。

私は祖父にはすごく感謝している。
だって、両親が家にいない時、遊びに連れて行ってくれたのは祖父に祖母だし、いつも何不自由なく遊べるお金を支援してくれていたのは祖父だ。
母からの暴力を「もういい加減にやめろ、お前は鬼か!!」と言っていつも止めてくれたのも祖父なのだ・・・。

きっと母は父である祖父に対してすごく恨みを持っているのはわかっているし、父も母を守りたい一心で同じ気持ちを持っているのも分かっている。
でも、だからと言って、私たち子供にまでその思いを強要するのは違うのではないか。

私は祖父への毎日の電話を「おじいちゃんが心配だから。純粋にその気持ちで電話している」と何度も両親に訴えた。しかし、親は相手にせず「お前毎日おじいさんに電話してポイント今高いぞ(笑)」と言ってくるのだ。

私の純粋な気持ちは平気で踏みにじられ、親は自分たちの見たいように私たち子供を見るのであった。

本当にしんどい時、いつでも心より体が先に反応するのはなぜだろう。

私の無意識の部分が、もう無理だよ、と教えてくれるのか。

私は動悸がしたり、眩暈がしたり、不眠がひどくなり始めた。何とか仕事には行けていたが、息がしにくくて、頭がぼーっとして文字が入ってこず、焦燥感で過呼吸っぽくなり、衝動的な焦り感があって集中力がなくなり始めた。

それとなぜか、過去の、中一の時電車で痴漢され続けていた事がなぜかいまさら身体感覚まで生々しく思い出されるようになって、すごく気持ち悪かった。

友達や妹にSOSを出し、話を聞いてもらった。
妹に「お姉ちゃん精神科行って来たら?」と言ってもらった。

私もそろそろ自分の力だけでは無理だと薄々気が付いていた。
仕事へ行けなくなったら、きっと回復も難しい。

2021年10月の金曜日、私は初めて精神科を受診した。

死にたい人の話はいくらでも仕事で聞いている。精神科に通っている人の話もいくらでも聞いている。

でも、自分が自分の症状で通うのは、あまりにも違う体験だった。

行く前、死ぬほどドキドキしたが、とってもきれいな病院で、来ている人たちも見た目普通の人たちばかりで驚いた。

ソーシャルワーカーさんが問診でとてもしっかり話を聞いてくれて、先生は「風邪かな?薬だしとくね。」くらいの感じで、抗うつ薬(セルトラリン25㎎)、抗不安薬(グランダキシン50㎎)、眠剤(ルネスタ1㎎)が処方された。

ここから、抗うつ薬との生活が始まる。

㉛へ続く



🌸こぼれ話1🌸

精神科へ行く前日、トラウマDVの勉強会と自助会へ参加してきた。

初めて会う人たちばかりの前で、泣きながら自分の話をして
「明日、精神科に初めて受診しに行きます。」と言った。
中一の痴漢のトラウマは分かってくれる人に話したかった、同じ気持ちを抱えている人たちに話を聞いて欲しかったのだ。

帰りに一緒に帰った人が
「やっと底ついたね。おめでとう。ここからは治るばっかりだから」
と言ってくれた。

すごく勇気づけられる言葉だった。

🌸こぼれ話2🌸

初めて精神科を受診した日、両親が東京へ来ており、そのあとすぐに両親に会う予定があった。
妹に「精神科行ってこれたよ!」と電話したときには「もう親に会いに行いかんでいい!嘘ついて休んじゃいん!」と半泣きで言われたが、私は休めない質なのだ。

もらった抗不安薬をすぐ飲んで両親へ会いに行った。

しかし、服薬して最初の30分は何ともなかったが、30分経過するとめちゃくちゃふらふらして、まっすぐ歩けなくなり、駅のトイレで休憩。
不安がなくなるというか、三半規管がおかしくなった感じ。

なぜか、はじめての彼氏への申し訳なさがいきなりこみあげてきて、トイレで号泣(笑)。
精神科へやっと行けたという安心もあったのだろう。安心したら泣いてたって感じだった。
ひときしり泣いたら筋肉の緊張がとれ、歩けるようになったため、ちょっとふわふわした状態で両親と会い、ご飯を食べて寝た。

セルトラリンを飲んで寝た夢は、お花畑の夢だった(笑)

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