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センスのない私の話。

写真のセンスがない。

写真を始めて優に10年を超えるのだが、自分にセンスというものを感じたことが一度もない。写真をやらない人達が「私にはセンスがないから」と言う度、「私にもないけどな、ははは」と自虐的な気持ちになる、というのをずっとずっと繰り返している。

色んな写真家の写真を見ては「なんだこれすげえな」と思い、「自分にはこういうセンスがないなぁ」と思う。そんな人間だから「自由に撮れ」と言われると困ってしまう。

写真館に入った頃、「自由に撮っていいよ」と言われた時にはまさに困ったものだった。私の中で写真館は決まったポーズを撮ればいいものというイメージだった。自由があるなんて思っていなかった。センスのない人間にとって、自由は恐怖でしかない。背景の色をどう活かすとか、どんな構図にするとか、どんなポーズにするとか、全く思い浮かばなかった。そもそも人を撮ること自体に慣れていなかった。

他のカメラマンの写真を見ながら、「どうしてこんな撮り方が思いつくんだろう」と思い、「どうして私には思いつかないんだろう」と思っていた。写真を撮る行為が「自分のセンスのなさを確認する行為」になり始めていた。

撮り始めは先輩の写真の真似をすることが許されていたが、いつまでもそうしてると「自由に撮っていいの知ってる…よね?」みたいなことを言われる為、自分で考えた写真を撮らねばならないのだが、何をどうしたら良いか分からなかった為、とりあえず「自分だったら恥ずかしくてやりたくないポーズ」を「これくらいだったらまぁやってもいいかな」というものに変えたり、「影が強すぎて自分だったら嫌なライティング」を「影を柔らかくしたライティング」に変えたりした。

自分だったら嫌だと思う撮り方を変えた後は、「自分がこのお客さんだったら嫌なんじゃないかな」というのを勝手に想像してそれに合わせるというやり方をした。笑うのが苦手そうなお客さんには「私が笑ってと言っても、無理なら無視して構いません」と言ったり、カメラを見るのが苦手そうなお客さんには「向こうを適当に見てくれればいいです」と言ったりした。それを繰り返していくと、「どうして苦手なのか」が想像できるようになって、その原因になっているコンプレックスが目立たないポージングやライティングをするようになった。

とにかくセンスがないものだから、せめて「嫌なことはさせない」ことを気をつけた。お客さんの身になってみたら、嫌なことは沢山想像できた。それを解消する方法をとにかく考えた。センスがないのだから、それしかやれることがなかった。

そういう撮り方を続けていたら、私は前ほどセンスのなさに悩むことがなくなっていた。「どう撮ったらいいか」を考え込むことも少なくなった。「どう撮ったらいいか」のヒントは、目の前のお客さんがくれている。私はそのヒントを形にすることに必死で、自分自身のセンスなど、わりとどうでも良くなっていた。

今でも私は自分にセンスがあるとは思わない。だから「好きなように」と言われると正直困るし、好きなように撮ってるように見えても、必ず取っ掛かりはお客さんの中から拾っている。

「何を期待されてるか」
「何を不安に思っているか」
「写真でどんな嫌な思いをしてきたか」

会話の中から、カメラを向けた時の反応から、私はヒントを拾い、そこからお客さんがどんな人かを想像し、お客さんの嫌がることを避け、喜ぶことに近づこうともがいている。最早自分自身のセンスについて悩む暇なんてない。

それでもセンスが落ちてたら拾うと思うし、「もっと違う撮り方はなかったかなぁ」と悩むことはある。「写真に個性がない」と言われたこともあるし、少しも悔しくないかと言われたら嘘になるが、いつか誰かが言ってくれた「サトウさんの写真では無理をしなくていい」という言葉にいつも救われている。私の写真に個性はなくても、お客さんの個性が潰されてないならそれでいいじゃないか、と思う。

それに、私の存在自体はだいぶ個性的な気がしているから、もうそれでいいような気もしている。

センスのない私に、写真のヒントをくれるお客さん達、いつもいつもありがとう。

センスないからとりあえず夕焼け載せとくわ

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