見出し画像

菅波先生とモネ。橋をかけるふたり。

前回書いた記事をたくさんの人に読んでいただけて、うれしいです。
しかしあれをアップした直後、何もしない傍観者だったはずのモネに転機が訪れ、あっという間に東京の華やかなテレビの仕事を捨てて島へ。
じわじわと動く人なのに、一度決めると変化が早い。おもちゃの車の、ぎゅーっと巻き続けたゼンマイから手を離すと、思いがけず速く動く、そんな感じにも思えます。ここまで彼女は自分の内側に想いと力を閉じ込めてきた、それがラストに向けて弾け飛んでどこまでも進んでいく感じ。

それは菅波先生との恋でも同じで…これまたあっという間にプロポーズまで!早い!早いけど…いろいろたいへん!

---

「傍観者」だったモネは徐々に、「傾聴者」としてのスキルを磨いているように思えます。

悲劇の場にいなかったという負い目から、悲しむ人を後ろから見ているだけだったのが、彼らの正面に座り、まっすぐ向かい合えるところまできた。
そして「わからないくせに」の言葉に「うん、わからない」と静かに返すことができる人に。

人の話を聞いて「わかる〜」って共感するフリとか、わからないことを責められないように遠くへ離れるとか、そっちの方が楽なんですよ。でも彼女は島へやってきて、わからないと自覚しながら、話を聞く。

それはやっぱり、菅波先生の
「わかりません、でもわかりたいと思っています」
この言葉を聞いたからこそ、ですよね。
「わからない」という事実を認めて、それでも「わかりたい」と話を聞く。
遠く離れていても、彼女の中にいつも菅波先生はいる。

「わかりたい」の気持ちは、「橋」なんじゃないでしょうか。
橋があるからといって、あちらとこちらがひとつになれるわけではない。でもつながってはいられる。渡りたくなったらいつでもどうぞ、こちらからも訪ねますね、と言えるように。
人と人を力づくでひとかたまりにして「絆!」「つながり!」「仲間!」としてしまうのではなく、お互いの間に川や海があることを認めて、そっと橋をかける。
ひとつにはなれない、わかりあえないかもしれない、でも橋をかける。
誰かの助けになるかどうかはわからない、でも語りたい人の言葉を聞く。
「わかりたい」という、橋をかける。

---

…ここまで書いたのが、日曜の夜でした。のんびりと推敲している数日のあいだに、菅波先生は「感染症」という言葉で東京に戻って行き、残されたモネはずっと心に秘めていたみーちゃんの苦しみを「傾聴」することになる。
あと2日で、モネは遠く離れた菅波との間に、みーちゃんとの間に、またあらたに橋をかけないといけない。
そんなことがほんとにできるのか、そしてこの場所でモネはビジネスを成立させることができるのか(これすごくたいへんそう)。

異例なことだらけの朝ドラで、終わったらまたまとめて感想を書きますが…

がんばれモネ、がんばれ菅波、がんばれみーちゃん、みんながんばれー。

画像1


この記事が参加している募集

サポートしていただいたら即映画見ます