悲しさと向き合う。

母との関係で感じてきた「悲しさ」を感じてみる。
すっごくたくさんある。すっごくすっごくある。
近いから、向こうは一心同体で接してくる。
母の感じた悲しみも私は受け取って当然。
母の愛情(歪み)も全力で受け取って感謝されて当然。
境界線の引けない母親の感情を胎児から受けてきた私は、
当然ボーダーだった。
母親の感情がファースト。そう言う基準で自分自身の悲しみは
わかりづらくなってたけど、
「悲しい」

「悲しい」とは?「憎たらしい?」
もちろん怒りもあるんだけど、
結局「幸せそうじゃなかった」ことが悲しい。

ねえ、いろんな本に母親は好きでああやってて、
本当は幸せなんですよ。的な洗脳ワードでなんとかだまくらかして、
罪悪感を拭い去らせて、幸福な選択を許せる自分になろう。

的なものあるけど、私は「絶対違う!」と思ってきた。
あんなの幸せなわけないだろ。
服薬して、手首を切って、泣き喚いて、いつも情緒不安定で、

好きでやってるだ?ふざけんな!失礼だろ。
と言いたい。

罪悪感は確かに苦しいし、邪魔なんです。
それはでも「悲しい」を感じきらなかったから、
頭で整理しようとして、そうすると「罪悪感」になるんだよね。

罪悪感って、シンプルな感情ではない。
ある思考があって初めて成立する高度な「感情」だと思う。
「痛い」とか「寒い」とかとは違うってこと。

つまり、「こうあるのが善」「こうあるのは悪」と言う基準。
を踏まえた上で、初めて生じる思考。

嫌だよ〜。悲しいよ〜。ってどうしてだろう。
シンプルなのに、私たちは感じるのが苦手。
あ、許されなかったからだね。

赤ちゃんは、嫌だ〜、寂し〜、めっちゃ訴えるよね。
それが許されなかった。出したらダメだと言う幼児期の強烈な学習。

でも、感じていいのだ。
かなし〜、寂し〜、痛い〜、母の泣き顔を見るのは悲しい。
悲しい。

何も出来ない。→私は無力だ。→罪悪感。

ってなるんだけど、何も出来ないのは真理なのだ。
何も出来なくて当然。子どもなんです。

はあ、何も出来なかったな。悲しい。
悲しい。は〜悲しい。何も出来なかった。
なんの役にも立てなかった。むしろ傷つけた。
悲しすぎる! だけど、、、、出来ないのはもっともだ。

だから、悲しい現実があった。
親の育ちも相当酷かった。母親は辛い思いをした。
それは可哀想だ。そして私は母を癒せない。
いや〜、そりゃそうだろ。

何もかもしてくれたのに。そうだろうか。
アトピーが酷くて、病院にもたくさん連れてってもらった。
体質は遺伝だし、アトピーが悪化したのは家庭環境。

要は自分でどうにかしたかった。スーパーマンになりたかったけど、
それは叶わなかった。

大きな願いが叶わなかった。挫折ですか。
それは挫折です。

悲しみと怒りがセットになっている。
分けてみよう。



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