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食欲の秋に「誰かと食べること」について考えてみる

知人から教えてもらった本の中にこんな文章があった。

ともに食べるということは、他者への思いやりと相互の信頼の基礎をかたちづくる。

今日は「ともに食べる」ことについて考えます。

「他者への思いやりを育む」

同じ食べ物でも美味しいと感じる人もいれば、不味いと感じる人もいるし、辛いのが得意な人もいれば辛いのが苦手な人もいる。バイト先でカレーを注文するとき「どれくらい辛いですか?」という質問をするお客さんの返事にはいつも困っちゃう(笑)

それくらいに「味」って個人的な感覚。そんな感覚を共有するのは難しい。けれど、ひとにご飯を作ったとき「美味しいかな?」と思いながら箸を手に取る。これを他者が今味をどのように感じているか、想いを馳せるトレーニグだと筆者は言った。

これはどうしても食べたくなったトムヤムクンを作ったときのつぶやきなのですが、作って味見したとき真っ先に「るいさん(シェアハウスの住人)絶対食べれない辛さじゃん〜〜〜」って思った。

結局辛いけど美味いって、ヒーヒー言いながら食べてくれて嬉しかった。(途中リタイアののちに残りは私が美味しく食べました笑)

私のシェアハウスでは、〜が好きそうな味っていう言葉がたまに出るけれど他者に思いを馳せているんだな、と思うとなんだかその言葉がキラキラしたものに聞こえた。

「食べさせてもらっている」感覚

次に本の中で言われていたのは、食という行為における他者の不可欠さ。「いのちの源を作ってもらっている、食べさせてもらっているという事実をそのつど再確認するいとなみ」だと。

これはシェアハウスで生活するようになって、本当に思い当たる節が多くて。住人たちはそれぞれ食べ物を得る手段が少しずつ違う。手段というか食べ物を得るときの対価の形が違うのかな。

まず、食べ物を得る方法には自分で作るか、人が作ったものをもらう、この2つがある。人が作ったものをもらうためには、その分何かその人にお礼をしないといけない。一般的にそれは日々レジのお兄さんに払うお金だったりする。

ただ、住人の中には自ら畑に行って、農作業を手伝うという労働をすることで野菜をもらってくる人もいる。正直、最初はびっくりした。そんな食料調達の方法があるなんて!って。

そして、そんな人たちから気づくこともあって。そうやって畑での労働を経てキッチンに届いた野菜、とても特別に見えた。大事に食べないとな、って。美味しく食べよう、食べることができるところはできる限り食べよう。でも、ちょっと考えてみたら「あれ?家に並んでいる食べ物たちって誰かの労働なしにはないんだな」と思うようになった。畑での労働もアルバイトでの労働も一緒で、畑で労働して野菜を直接もらうのも、アルバイトして稼いだお金で野菜を買うのも同じであることに気づいた。

まさに「食べさせてもらっているという事実をそのつど再確認するいとなみ」なんだよね。

「誰かと食べることで自分を大切にする」

ともに食べることにはもう一つ大きな意味があるらしくて、それは壊れやすい人の生理を秩序だったものへと調整する機能だって。

実は私がシェアハウスで暮らす1番の理由は「自分を大切にする」ため。大学1年生の時はじめて一人暮らしをしてみて感じたのが、自分のことをあんまり大切にできないな、という感覚。節約も食費を削るところから始まっていたし、お腹が空かなかったら自分のためにご飯を作るという行為はめんどくささしかなくて。作ったら、食器洗いまでしないといけないしね。自分の生活の中での優先度がどんどん下がっていった。一日三食なんて食べなかった。

きっと食事には人の生活リズムを整えてくれる機能があると思う。なにか作業をしていて、食べるタイミングを無くしたりするとちょっとずつ心が不安定になっていく感覚がある。自分の時間を食べることも考慮して管理できていない時、それは大体余裕がなくて、そうなると心や体に影響が出てしまう。

シェアハウスで暮らし始めてから、夜遅くなって夜ご飯を食べないとか、朝寝坊してしまって朝ごはん食べないとかそういうことはまだあるけれど、ほぼ毎日LINEで「今日は夜ご飯いります、作ります」とか「今日は家で食べません」と伝えることで私の生活の中にご飯を食べるかどうかを考える時間をもらっている。

それに加えて、体調が悪い日は体にいいものを、とメニューを考えたり、風邪をひいている人のために買い物をしたりとお互いの体調を気にかけて食事をともにしてくれる今の環境は本当にありがたい。今日の食事は私の体調に合わせて、水炊きにしてくれました...。遠慮せずに気にかけあえる距離感はきっと信頼なんだろうな、と。

「誰かと食べること」

この夏に知り合ってお寺の住職さんのお話の中で、こんなお話があって。

皆さんは生きてからこれまで何回お食事をしましたか?1日3食だと考えると、単純計算1ヶ月約90食。1年で1080食。それに皆さんの年齢をかけてみてください。皆さんが「いただきます」「ごちそうさまでした」というように、その度に命をいただいています。

この後が私にとって心に残っているんですけど、

まぁでもそんなことを、毎回の食事で思うのは難しいことで。ふとした時に思い出せばよいこと、そのためにお寺という場所があると思っています。

ほっとした。日々心忙しい生活の中で自分が口にする全てのものへ感謝して食事するのは難しそう。海外には貧困で困っている人がいるんです、と知っていてもハンバーグに添えてあるニンジンが私は苦手です。

ただなんとなく、そうやってふと思い出せる場所があるのは大事そうで、私にはその場所が近くに感じられることが嬉しかった。家という場所が心落ち着ける場所で、一緒に食事をともにすることをありがたく感じることができることが幸せに思えた。

「誰かと食事をすること」についてもっと思いを馳せてみる。夕方に友達と食べたラーメンでも、夜遅くのスーパーで買って好きな人と食べた3割引きのお寿司でも、たまたま学食の入り口であって後輩と一緒に食べたご飯でも「誰かと食べた」ことだ。確かにその人との大切な思い出には食べることがあったな、と思った。

秋にぴったりの考え事でした。ちなみに本は鷲田清一先生の『わかりやすいはわかりにくい?』です。



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