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合理的配慮しなくて良くね?な人へ


普通に考えて

普通の人が普通に考えて、
「障害者差別するなというのは分かる。能力のない人におこぼれを預けて、生命維持くらいはしてもらっても良い。そのためになら税金を払う。でも、
能力のない障害者(=病気側)に社会が合わせるのは違うんじゃないの?
となってもおかしくないだろう。私も以前までそう思っていたし、実際合理的に思える。ここで、安心していただきたい。私は最近流行りの
「何でもかんでも受け入れよう。はい多様性多様性。」
という感じに思考停止で何の根拠もなくスカスカの思想を押し付けて子供だましに興じるつもりはない。寧ろ、合理的配慮を不合理だと考えている人間に、腑に落ちる、意味の通る論を提供したいと考えている。

健常者/障害者 は実はかなり曖昧

 健常者/障害者の分類は時代によって変わるものである。視力が悪く0.1を下回る程度の人間は補助器具を必要とする意味で、紛れもない障害者である。しかし現代、多少視力が悪い程度のことでそこまで強く障害者と意識されないだろう。というのも眼鏡が普及して、そこまで大きく問題とならないからだ。一方で眼鏡のないもっと昔、縄文時代や弥生時代だったらどうだろう。言うまでもなく致命的な障害者である。繰り返しになるが、健常者/障害者の分類は時代によって変わる。

健常者=正常/障害者=異常 なのか?

 遺伝的に優れたもの(正常)を残し、
 劣ったもの(異常)を淘汰するべきである。
という考えをここでは認めてみよう。遺伝的に優れているとはなんだろう。コンピュータの扱いに長けている、数学が出来るなどの能力、つまり抽象的な思考をする知能が高いということが、遺伝的に優れていると見做されるだろう。しかし、そのような能力を持った現代人の多くを弥生時代にタイムスリップさせたらどうだろう。身体能力の低い障害者と見做されるだろうし、ややもすれば"ムラ"から間引かれてしまうだろう。それはもちろん、数行前に書いた
「遺伝的に優れたもの(正常)を残し、劣ったもの(異常)を淘汰すべきである。」
という考えに従えばそうなるということである。当然矛盾である。
何が間違っているのか。
「遺伝的に優れたもの(正常) / 劣ったもの(異常)」
としてヒトを綺麗に二分できる、という二元論が間違っているのだ。
 優れたものを残そうとして正常/異常のラベルを貼り、それで淘汰システムを運用させたところで、それが意図したように機能することは全く期待できないということである。

タイトル回収

「障害者差別するなというのは分かる。能力のない人におこぼれを預けて、生命維持くらいはしてもらっても良い。そのためになら税金を払う。でも、
能力のない障害者(=病気側)に社会が合わせるのは違うんじゃないの?

私が最初に書いたやつ

 ↑これが間違いであることが分かっただろうか。深く問うて精緻に解像度を高めていくと、優れたものを残したいという思想背景があり、その優れたものというのがそもそも曖昧で定まらないので、間違っているということ、それからもう一つ、優れている=正常, 劣っている=異常という同一視が無意識に行われていて、また先ほど指摘したように優劣というのが明確な概念でないのでそのような論は不合理(矛盾して、意図していない結果になる危険がある)であるということが分かる。

そもそも発達障害者は常に定型発達者に配慮して生きている

私はADHD/ASDの診断が出ており、知能検査の結果も全ての項目で平均水準を少し超えて、またばらつきがある。コミュニケーションも共感より内容重視のものである。これは異常な間違ったことでないというのは先程話した通りであるが、現実的にそんなことを言っていては生きていけないし、私は幸い定型発達者の会話を解析・シミュレーション出来るだけの能力を持って生まれたので、そちらの回路を使って配慮して生きている。例えば、遣う言葉を敢えて平易なものにしている。この文章など。さて、賢明な読者諸君は
「いや発達障害が異常で定型発達が正常なんだからお前らが合わせるのは当たり前だろ」
という、数が多いだけで自分を正常だと思い込んでいる凡庸な自意識過剰集団に成り果てることなくこの文章を読み続けてくださっているだろうと期待するが、
 障害者が健常者に配慮して合わせるのではなく、配慮を双方向にやれば良いのでは?というだけの当たり前のことが、合理的配慮なのである。


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