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子が大学(高専)に行った親へ

はじめに

 自分は高卒・中卒・専門卒という人で、子どもが大学や高専に行っている人向けに書く。誇らしさ、寂しさ、期待、不安、様々な感情があると思う。子どもが大学で何をしているのか、子どものために何をすべきか考えたくても、大学に行っていなくてどういう場所か分からない以上、中学・高校までの自分の延長線上で「想像」するしかない。
 そういう悩みを抱えている親向けに、中学→一関高専→新潟大学理学部(編入学)して現在学生として生きている私が子の立場で情報提供をしたいと思う。数学科のことしか分からないが、少しでも参考になれば幸甚である。
 なお、以下では便宜上大学と単に書くことにするが、実際は大学及び高専全般について言っているつもりである。高専生のお子さんがいらっしゃる親の皆様はご了承願いたい。

1. 大学ってなんだろう

1.1. ❌職業訓練の場→⭕研究機関

 まず大事なこととして、
大学は「職業訓練の場」ではない。
確かに大学は「研究機関であると同時に教育機関でもある」などと標榜しているので、大学に職業訓練を期待するのは自然だと思うが、
そうではない。
親の大学への具体的な期待として、子どもが手に職をつけて社会人として経済的に自立して生きるにあたって、より高度で専門的な職業に就くための技能を提供し、社会人としてのマナーや、礼節も含めて教育してくれるのだろうと考えているかもしれない。
これが全く違うということである。
 
大学での教育とは、社会人としてのマナーや礼節を教えることではない。メールマナーなどは教えてくれない。そうではなく、大学での教育は研究の基本・基礎としての学問を教えるということである。その目的は学問の発展であり、また研究というのは学問を通じ、時代を越えて学問それ自体、延いては人類に貢献することである。やや抽象的になってしまったが、学部や研究科によってその具体的なところが変わってくる。
 もちろん医療福祉系やIT系で職業能力開発を目的とした特殊な大学もあるが、一般的な大学は職業訓練の場ではない。研究機関である。
 もちろん、学生も高校生のうちは大学のことなど知らないわけで、親子ともに大学を職業訓練の場として、箔をつけてくれる場として期待して職業訓練校だと思って大学に入ってくる場合もあるだろうが、教員は教育者というより研究者であって、学問を志す大人として学生を扱う。

1.2. 自由とは何か

 大学は自由とよく言うが、単に酒を飲めるとか、煙草を吸えるとか、夜遅くまで起きていられるとか、学友とドライブして遊べるとか、
その程度の意味では断じてない。
大学で言う自由とは、政治的圧力や同調圧力に屈さずに学問を、つまり真実を追究することができ、それを実際に実践する立場のことである。
(https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/282236/1/eda08_155.pdf)
↑参考までに

1.3. 「学校」で教わるとは 学ぶとは

 数十年~半世紀ほど前の学校に通っていた親世代であれば、学校というのは
「社会はこういうものだ」
「学問とはこういうものだ」
を一方的に押し付けられる場として考えている人も少なくないだろう。
これも全く違う。
 
大学でやる学問というのは、教員が学生に既存の知識を吸収させる一方的なものではない。学部の1,2年生であれば基本的・基礎的に既知とされる内容を一方的に教授される吸収の段階も当然あるが、基本的に新規性のある未知の学問・真実を探究するのが研究機関としての大学の側面であって、教員でも分からないことを学生と教員が一緒に研究して発見していくというのが大学で教わり、学ぶということである。
 日本の親世代特有の事情として、年齢による上下関係の影響を色濃く受けているという問題がある。このような背景・バイアスがある人の中には、
教授という強い権威を持った人間が学説を教えるというのは実質洗脳と区別がつかないだろうと誤解している人も少なからずいるだろうと思うが、基本的に大学において偏った歴史観や思想や特定の学説を押し付けるというような雰囲気が蔓延しているということは、私の知る限りで(少なくとも自然科学系では)ない。確かにやや左に偏った変な人や、単位をもらうためにそれに阿って同調しているようなレポートを書く残念な学生はいないではないが、基本的に各教員の研究は大学組織とは全く独立して行われるのであり、国や特定の政治団体や偏った学説を支持する集団に忖度して運営されるということはない。そもそも研究の単位は個人である。同じ研究分野で協力するために各個人(教員や大学院生)が協力し合うことは当然あるが、組織的・社会的に何か目的を持って忖度して研究を行うというものでは全くない。
 この1.3. で述べたことは、1.2.の「自由」とも密接に関わることである。

2. 何のために大学に行くのか

 学問が面白いからである。暇つぶしと何ら変わりないではないか、と思われるだろうが、そうである。ゆとりのある人間が学問をやるのである。
そもそも、School(スクール)はラテン語のSchora(スコラ)から来ており、この語源は「余暇」を意味する Skhole(スコレー)である。古代ギリシアの哲学から学ぶことは多い。

おわりに

 大学は、ある意味で社会に最も近く、ある意味で社会から最も遠い存在である。その意義や価値観についてこの記事から衝撃を受けたことも多いと思う。
「こんなことに金と時間を使って、経済的に自立した社会人になる上で大丈夫なのだろうか。」
と心配になる親は多いと思うので指摘しておく
(疑問がない人は読み飛ばして頂いて構わない)。

価値と価格を同一だと考えていないだろうか。
違う。労働力を金銭で測って取引する世の中になって久しい。社会人としての貢献の程度が数字で見えるようになっているように見えるが、実際そうだろうか。この金というのが、本当に信用や価値を表すものなのだろうか。会社で働いてお金を得ている人は尊くて、自発的に外に出て地域の掃除をしてくれているおじちゃん・おばちゃんは尊くないという考えがおかしいのは分かるだろう。投資家がどういうビジネスなのか知りもせずに、相手に会いもせずにポチポチカチャカチャとやって利ざやを稼ぐことが出来る。沢山稼いでいる人はインデックスファンドに金をブチ込んでおけばいつの間にか5,6%の利益が返ってきて、NISAを使わないにしても高々20%ちょいの税金しか取られずになんか急に金が入ってくる。これが価値なのだろうか。
 さて、私は日本的な共産主義者でもないのでこんなゲームを非難しないし、どうでも良いと思っているのだが、
「金を多く稼ぎ経済的に自立することが社会人の要件・目的である」
というのが、如何に近視眼的な奴隷のような考え方であるか、理解した上でこのゲームをプレイした方が良いと思う。
 大学でやる学問の価値とは、そのような矮小化された奴隷の価値観から全く独立した、時代を超えて普遍的なものである。
 
学生の立場の私が出過ぎたことを言うようで恐縮であるが、お子さんが、単なる社会人としてでなく、主体的な知識人として成長する未来を祝福出来ることを願っている。


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