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東日本大震災に折り鶴を送る愚かさ

背景

2011/3/11 宮城県石巻市O町というところに住んでいたら壊滅した。
こちらは
「箱に入って流れ着いてきた鮭を食べなければ皆死ぬが衛生的に大丈夫なのだろうか。」
「全員に毛布がなければ寒くて死ぬが、子どもたちに配分するだけの量がないから複数人で無理にでも入ってしのごう」
なんて生きるか死ぬかという話をしている中で、折り鶴を送るべきと言っていた人もいたようである。

人間と成長の段階

人間の成長には段階があり、持っている欲求と関係があるということを多分倫理で学んだはずである。Abraham Maslow の欲求階層説である。

英→日翻訳は私による

我々が営む通常の社会生活では、概ね第3階層(所属と愛)以上の欲求をベースにしていると思われる。階層を跨げないことは、例えば大雪が降ったら安全でないので大学(自己実現)に行けないということに対応するし、生きるために最下層だけは満たさなくてはならないということは、例えば生命維持に必要なインフラが整備されていないとデモが起きるということに対応する。
 経済的に、社会的に恵まれている人の自己実現のための就職観と、生きるために精一杯の人間の就職観とでは全く相容れないことは想像に難くないだろう。求めているものが違うのだ。重要なこととして、より下層の欲求を満たすべく生活している人間にとって、より上層のものを押し付けられることは甚だ迷惑であるということがある。

折り鶴などは迷惑の良い例である

折り鶴が何の欲求に対応しているかと言えば、支援者たちにとって、
「私たちは被災者の仲間だ、見ている人がいる。」
という、所属と愛の欲求に対応しているのだろう。しかしこちらは生命維持と安全で精一杯であって、これ以上のことは求めていないし、与えられたとして混乱してしまうのである。最初に話した例を出すが、O町は漁村であるので、津波が来れば発泡スチロールに入った鮭などが当然流れてくるわけである。商品なので厳重に梱包してあって中に汚水は浸透していなかった。こういうときに、食べないと死ぬので焚き火で調理しようという話になってくる。また、雪が降る中で毛布がなければ死ぬので、どうやって寒さを凌ぐべきかという話になってくる。こういうことで頭が一杯であって、最重要事項が食料・水という状況だ。ここで折り鶴を送られることを考えてみてほしい。食料と水がなければ死ぬという状況で折り鶴を送ることには、無理解と侮辱が対応している。
「米がなければ折り鶴を食べれば良いじゃない」
ということである。そうとしか思えない。というかそうである。こちらの心が荒んでいるのではない。生命維持に注力しなければ死ぬという状況で、それ以外を考える方が愚かである。

何を求めているんですか

求めているのは仲間ではなくて食料と水である。えぇ冷たいなと思わないでほしい。冷たいも何も、地球というやつが揺れたせいで、嫌でもそういう状況に落とし込まれているのである。冷たいのは地球なので、勘違いしないでもらいたい。
 ここでさっきの階層説を思い出してほしい。生命維持と安全の先には所属と愛がある。要するにステップが必要ということだ。自宅再建が進んで、学校がまた稼働して、商店街が動き始めて、それからの話である。
つまり、
発災 →
自衛隊や国による支援 →
炊き出しや食料支援 →
…日常生活へ
ということだ。求め過ぎだろ!と思うかもしれない。ただ支援とはそういうものである。必要な理解と覚悟がないのにただ折り鶴などを送るようなものは支援を語る資格はないということだ。認識を改めてほしい。嫌ならしなくても良いのである。
結局、
エガちゃんのような支援が一番うれしいのである(ググってほしい)。

冷たい?それが災害です。

多くの人は冷たいと感じたと思う。勘違いしてほしくないのだが、まず間違いなく冷たいのは地球である。貴方の家にある冷蔵庫、IHヒーター、グリル、風呂、こども部屋、場合によっては子ども自体、或いは自分。
全部突然奪われる。地球に。
そういうものなのである。私たちに出来ることは防災だけであって、実際そこに陥ってしまったら本当に食料と水がなければ死にますという状況になるしかない。社会で生きる通常の人間→どん底へと落とし込まれているわけだから、それだけ重いものなんだな。常識は全く通用しないんだなと思っていただきたい。

常識は通用しない

東日本大震災クラスのヤバすぎ災害が生じると、壊れるものは社会である。自然権(社会などがない状態で誰もが個人として持っている自然な権利)などの一部を政府に付託して、それで政府(広義)が運営される契約(社会契約)が前提にあるというのは John Locke の考え方である。これを使うと非常に分かりやすい。災害時は政府(地方行政など)も被災するから、政府(行政)が整備する道路や、警察機能や、その他諸々が機能不全に陥る。政府が動いていないという状況だ。ここで法律など、当前通用しない。さっき流れ着いた鮭の例を出したが、ここで泥棒じゃん!と思った人もいたのではないだろうか。それは社会の常識としては大正解であるが、社会が壊れて機能しなくなった状況の常識としては不正解である。だって死ぬもん。マジで。ちゃんと説明すると、自然状態において所有の観念が共有されることはないのだ。(註1)哲学はこのことをよく理解して言葉を整備しているから敢えてこういう言葉を使うが、感覚的に分かることであるから、よく考えてほしい。
 ちなみに当時は鮭の所有者(若しくは漁業組合で相応の権利を持つ人)もその場にいて良いから食えと言ったのでそのへん大丈夫な感じである。

終わりに

この国の国土は大都市含めどこも被災リスクヤバいので(参考: 方丈記)、自分の家が被災する前提でこの文章をよく噛み砕いて頂きたい。読むのに精神的に疲れる文章だったと思うが、ここまで読んでいただいてとても嬉しい。ありがとうございます。


註1: めんどくさい人向けに書くが、この際所有権の考え方はホッブズのそれに準拠している感じがある。この際大多数が理解しやすいことを意図していたから敢えて非明示的にした。


更新日時
2023/02/14 6:57 投稿

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