文楽と会社経営
先日、ご縁を頂き、とあるお店で文楽を目の前で見る機会がありました。
その場のご主人と文楽の関係者の方々と長年のお付き合いから、一度お店でご披露を、となったとのこと。演目は「寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)」と「艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)」の演目のダイジェスト版。
「寿式三番叟」は、五穀豊穣を祈る意味から、お祝いの時や開幕に際して演じられるもののようで、華やかで躍動感のある人形の動き。
一方、「艶容女舞衣」は世話物と呼ばれているようで、主人公の「お園」の恋人への切々とした想いが伝わるあでやかな人形の動きでした。
ダイジェスト版とは言え、至近距離で文字通り目の前での人形と人形遣いの動きは迫力があると同時に、細やかな人間の情感を人形でここまで表現できるものなんだなあと感じ入りました。
そして、その後に人形遣いの解説を頂く機会も。
文楽では人形を操ることを「遣う(つかう)」というとのこと。
3人でひとつの人形を操っています。
①主遣い(おもづかい):人形のかしら(頭)と右手を遣う
②左遣い(ひだりづかい):左手を遣う
③足遣い(あしづかい):足を遣う
人形の重さは3~5㎏程。人形によってはそれ以上の重さになるようで、結構重く、この人形を1時間以上動かしていくのは相当な体力と修練が必要だなと感じました。
文楽の表現方法の重要なポイントは、三人とも前から見て人形がどのような状態か分からない状況で人形を操っていること。その中であのような人間らしい、感情豊かな動きを三人が違った立場で連携して動いていることに感銘をうけました。
「主遣い」のみが顔を出しており、「左遣い」、「足遣い」は黒子として顔を出さない。黒子二人は前が見えなくても、また他の体の部分の動きが見えなくても「主遣い」の様々なサインで連携して動いるとのこと。文楽の奥深さの一端を垣間見ることができました。
そして、文楽は人形をあたかもヒトのように演じさせることによって成り立っている芸術。しかし、人形は実際はモノでしかなく、人形遣いという生身のヒトが操らないと輝かない。
文楽は人形と人形遣いが一体となって初めて芸術として成立するもの。人形がなくても、人形遣いがいなくても、芝居にならない。
さて、単なるモノが人間の手でここまで感情豊かな動きになるのだなあと思いつつ、改めて経済学者の岩井克人氏が文楽と会社経営を紐づけて把握し、分析していた本を再読してみました。
さらに、岩井教授は「人形遣い」の心理の分析を通じて、企業経営の「倫理」を問う議論を進めています。
岩井教授はモノとしての会社にヒトとしての息吹きを与えて法律上の「人」として「法人」挌を与えたとしても、そのヒトを操る「人間」の資質、行動原理を文楽の人形遣いの姿勢を通じて把握しようとしています。
また、代表取締役、経営者は「主遣い」ではなく、黒子であるということも重要な指摘。
そして、この論考では、会社の取締役・経営者に求められる「善管注意義務」と「忠実義務」の話にまで及んでいます。二大義務は会社法上の法律上の人為的に作られた義務とは言え、文楽の姿から、なぜそれが必要なのか法令上の要求ではなくても十分導き出せるものと感じました。
文楽と会社経営。
いろいろ比較していくと、組織運営のヒントが得られるかもしれません。
人形遣いの三人は人形の全体の動きは見えないけど、何か共通のイメージを映像として持っているのでないか。いくら人形の主遣がサインを出したとしても左遣い、足遣いがお互い言葉を交わすことなく黙々とあのような人形の生き生きとした動きを作ることはできない。
三人が言葉ではなく同じイメージを具体的にありありと共有しているのではとも感じました。組織運営の原型がそこにあるのではないか。
また、文楽(芸術)は会社経営に通じることがあるということは、もしかしたら「会社経営」は多くの人が参加する総合芸術とも言えるのではないだろうか。
日本の伝統芸能はすごいなあと今更ながらの再認識。
とは言え、会社経営とのアナロジーとかあれこれ考える前に、純粋に文楽を楽しみたいなと思いました。
今度、国立劇場に文楽を観に行こうかなと思っています。
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