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目に見えないもの

久しぶりに金子みすゞの詩集を紐解きました。

星とたんぽぽ

青いお空の底深く、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼に見えぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。

散ってすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。

『金子みすゞ童謡集』(金子みすゞ/ハルキ文庫p108)
金子みすゞは「童謡詩人」と言われているようですが、
「童謡」だからこそ誰にでも分かりやすく、
ストレートに伝わってくるものがあるような気がします。

最近なんだか「見えぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ。」ということが気になっています。

みえない世界は、目でみて確かめることができないため、そこに「ある」とは確実には言えず、本当に存在しているものなのか分からないものとも言えます。

しかし、自分が直接見えている世界の他に、意識して見れば、思いを巡らせていけば見えてくる世界というものを、「星とたんぽぽ」という分かり易い事例で表現している。

人間の眼で物理的に、可視光線として見る事ができる範囲は極めて限定的であり、眼にみえない電磁波の領域の広がりは膨大と言えます。

では、目に見えないと分かることはできないのか、そこにあるとは言えないのか、と言うとそうでもなさそうです。

『目の見えない人は世界をどう見ているか』(伊藤亜紗)という本には、視覚障碍者の方のインタビューやワークショップ等を通じての「世界の別の顔」がまとめられています。

人が得る情報の8~9割は視覚に由来すると言われているようで、目に依存している生活の中で暮らしている。しかし、耳でとらえた世界や、手でとらえた世界で「存在」を知覚することも。

例えば、足の裏の感覚で畳の目の向きを知覚し、そこから部屋の壁がどちらに面しているかを知る。あるいは音の反響具合からカーテンが開いているかどうかを判断し、外から聞こえてくる車の交通量からおよその時間を推測する。人によって手がかりにする情報は違いますが、見えない人は、そうしたこを当たり前のように行っています。

『目の見えない人は世界をどう見ているか』(伊藤亜紗/光文社新書p6)


『「障害」とは何か改めて考えてみたくなる』(同書p209)と著者は最後に述べています。
障害を受け止める方法を開発することは日本がこれから経験する超高齢化社会を
生きるヒントを探し出すこともにつながるとのこと。

目にみえる・見えない、だけではない物事の把握の世界も十分豊かである感じです。

そして、ものごとをどのように感じ、把握するのかという観点では、物理学者の湯川秀樹の本に「目にみえないもの」という小論・エッセイ集の中の一文が印象的です。

真実

 現実は痛切である。あらゆる甘さが排斥される。現実は予想できぬ豹変をする。あらゆる平衡は打破せられる。現実は複雑である。あらゆる早合点は禁物である。
 それにもかかわらず現実はその根底において常に簡単な法則に従って動いているのである。達人のみがそれを洞察する。
それにもかかわらず現実はその根底において常に調和している。詩人のみがこれを発見する。
 達人は少ない。詩人も少ない。われわれ凡人はどうしても現実にとらわれ過ぎる傾向がある。そして現実のように豹変し、現実のように複雑になり、現実のように不安になる。そして現実の背後により広大な真実の世界が横たわっていることに気づかないのである。
 現実のほかにどこに真実があるかと問うことなかれ。真実はやがて現実となるのである。

『目に見えないもの』(湯川秀樹/講談社学術文庫p117)


本書は三部構成になっていますが、各章の冒頭に湯川秀樹の短歌が記載されています。
「物みなの底に一つの法ありと日にけに深く思ひ入りつつ」
「われは物の数にもあらず深山木の道ふみわけし人し偲ばゆ」
「深くかつ遠く思はん天地の中の小さき星に生まれて」

「目」で見ることができる狭い範囲の「現実」の背後に横たわっている広大な「真実」の世界に気づかない、気づけない日常。

いや、もしかしたら、気づきたくないという心理が無意識に作用していることもあるのかもしれない。

視覚だけに頼り過ぎているのかもしれない。

なぜノーベル物理学賞の大物理学者は、科学者ではなく「詩人」のみが発見できると言ったのだろうか。

目にみえないものごとを洞察し、真実を発見する詩人とは何をしているのだろうか。

再び、金子みすゞの詩。

不思議

私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。

私は不思議でたまらない、
青い桑の葉たべている、
蚕が白くなることが。

私は不思議でたまらない、
だれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱちりと開くのが。

私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑ってて、
あたりまえだ、ということが。

『金子みすゞ童謡集』(金子みすゞ/ハルキ文庫p82)

「あたりまえだ」ということをずっと不思議だと思い続けることが詩人なのかなと感じつつ、、とすれば、湯川秀樹は詩人であったのではないか。

金子みすゞはやさいしい日本語を使い、湯川秀樹は数式を使うという違いはあるにせよ。

もう四月も終わろうとしている週末の夕方、金子みすゞの詩集をパラパラめくっています。


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