久しぶりに金子みすゞの詩集を紐解きました。
最近なんだか「見えぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ。」ということが気になっています。
みえない世界は、目でみて確かめることができないため、そこに「ある」とは確実には言えず、本当に存在しているものなのか分からないものとも言えます。
しかし、自分が直接見えている世界の他に、意識して見れば、思いを巡らせていけば見えてくる世界というものを、「星とたんぽぽ」という分かり易い事例で表現している。
人間の眼で物理的に、可視光線として見る事ができる範囲は極めて限定的であり、眼にみえない電磁波の領域の広がりは膨大と言えます。
では、目に見えないと分かることはできないのか、そこにあるとは言えないのか、と言うとそうでもなさそうです。
『目の見えない人は世界をどう見ているか』(伊藤亜紗)という本には、視覚障碍者の方のインタビューやワークショップ等を通じての「世界の別の顔」がまとめられています。
人が得る情報の8~9割は視覚に由来すると言われているようで、目に依存している生活の中で暮らしている。しかし、耳でとらえた世界や、手でとらえた世界で「存在」を知覚することも。
目にみえる・見えない、だけではない物事の把握の世界も十分豊かである感じです。
そして、ものごとをどのように感じ、把握するのかという観点では、物理学者の湯川秀樹の本に「目にみえないもの」という小論・エッセイ集の中の一文が印象的です。
「目」で見ることができる狭い範囲の「現実」の背後に横たわっている広大な「真実」の世界に気づかない、気づけない日常。
いや、もしかしたら、気づきたくないという心理が無意識に作用していることもあるのかもしれない。
視覚だけに頼り過ぎているのかもしれない。
なぜノーベル物理学賞の大物理学者は、科学者ではなく「詩人」のみが発見できると言ったのだろうか。
目にみえないものごとを洞察し、真実を発見する詩人とは何をしているのだろうか。
再び、金子みすゞの詩。
「あたりまえだ」ということをずっと不思議だと思い続けることが詩人なのかなと感じつつ、、とすれば、湯川秀樹は詩人であったのではないか。
金子みすゞはやさいしい日本語を使い、湯川秀樹は数式を使うという違いはあるにせよ。
もう四月も終わろうとしている週末の夕方、金子みすゞの詩集をパラパラめくっています。