見出し画像

偽スピリチュアルとスピリチュアリズム

禅の公案に隻手の声というものがある。隻手とは片手のことだ。両手で音は鳴るが、片手で鳴る音とは?という禅問答である。片手でも音は鳴る。という事は片方に実体は無くとも、存在はあるという事だ。虚の存在があるという事であれば、隻手の声とは虚実の交点に鳴る音があるという事だ。一般に感嘆や感激の時に手を打つものであれば、その音というのは真実と言い換えてよかろう。つまり、虚実の交わりに真実があるという事である。敷衍すれば、虚実とは陰陽、光と影とも言い換えることができる。左右、男女、阿吽、諸々の対立し調和するニ元素である。ここで老子の言は明確であろう。一は二を、二は三を、三は万物を生む。

これはスピリチュアリストにとって、看過できない哲学的命題だ。目に見えるもの、見えないものの交わりによって、多くの、実に多くの真実や真理がある。霊的な生命の存在無くしては、隻手の声という公案、老子の言は複雑怪奇な地上的哲学、駄文を生むに過ぎぬ。真理の光に照らせば単純過ぎるほど単純な命題である。が、しかしこれは美しい命題である。

科学的探究からスピリチュアリズムは生まれたが、哲学的にもその根拠が古い典籍からも証明されるわけだ。物的宇宙が後発的宇宙であるのは、論を俟たない。整合性に於いて、その美的景観に於いて。しかし、理論的には物的宇宙のみ、唯物的宇宙もあり得るだろう。だが、その醜さと言ったら!それは哲学的にも醜く、倫理的にも醜く、審美的にも醜い。それは唯物的な国家が偽悪醜に満ちてるのと似て、破綻と破滅の宇宙観であろう。

近代科学からスピリチュアリズムは生まれたが、古典文学からもその正当性は認められると言える。なんとなれば、それは美しいからである。真善美が高くその霊的宇宙の高みに輝いている。その光はこの物的宇宙にも注がれる。唯物論とは、無明のことである。見えないから無いというのは非論理的であり、美を掴むこともできない。霊魂なるものは、世界の観察に於いて真実であり、また論理的必然である。

そして、我らも魂の存在であればこそ、我らは霊的世界から来たといえる。我らの本然は霊魂なのである。唯物論は無明であると言った。だが、それ以上に霊的世界に本質的価値を置かないスピリチュアルは堕落の因である。彼ら、彼女らのベクトルは霊的なものとは逆向きである。スピリチュアルと言いながら現世へ執着し、死への恐れに満ちている。銘記せよ、中途半端なスピリチュアルは害悪である。そこには厳しさも、峻厳さに由来する美しさも無い。

結局、激しい求道心なしに、楽して成就を望むのは間違っているのだ。これら偽スピリチュアルはスピリチュアリズムの敵である。寄生虫である。獅子身中の虫なのである。我々は激しさを以て真理を求めゆく。真理をオモチャのごとく扱えると夢みている愚か者には、辛い死後があろうことを警告しておく。この最後数行は魔を撃滅せんとする、破邪の文章である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?