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短歌のこと(9/5)

短歌は遊びだと思っていた。だが、いつの間にやら夢中になっている自分がいる。変なの。自分の真価は評論だと思っている。それは楽しく、時を忘れる。「愛のある評論」こそ真善美の伴う、神のごとき魂宿る文ともなる。故、星五つ付けたくなる対象にしかレビューも書いていない。貶すことに、何の意味があるのだろう?愛のない短歌や詩がカスであるように、評論も又同じだと知っている。これは幸せなことだ。保田與重郎は和歌も書いていた。文人をもって自認するなら、そうなる筈だ。小林秀雄は違う。両者とも大好きだが、保田與重郎は仰ぎ見る如くであり、小林秀雄は読書しても自然、頭の良い友達のような感覚で、対話のようになる。尊敬と、楽しみと、どちらも美しい。(どちらかといえば、いや、野暮はよそう。)
短歌は好きだ。俳句は私には合わない。少し、いやかなり趣向が違う。難しいのは俳句だろう、私には。一般的にもそうかもしれない。だが、詩文に、人麻呂のような歌に親しみや憧れを抱くと、自然、俳句より短歌だと思う。芭蕉も神のごとくだが、人麻呂はより凄い、偉大な印象を受ける。私は、短歌が好きだ。性に合っている。

(名前短歌のこと)
人の名前で短歌を作って贈ることが沢山あった。金銭を伴わず、それがネックである時には便利なプレゼントともなる。有難い。おまじない(漢字はこわいな・・・。)の意味で、祈りや願いも込めて贈る。喜んで下さる場合が殆どだが、猫に小判のような場合もなくはない(特に若者はそうだ・・・)。気を付ける。要は人を見て、程度を弁えること。これもセルフコントロール。度を超すことが非常に多く、ブレーキをもっと新調しなければいけない。(アクセルはもう充分・・・。)ブレーキとは理性に拠る所、大である。アクセルもかなりそうだが、まず、感性を安定させる術に習熟しよう。食、修身(ふりたま、鎮魂法、卵オーラ)、芸術。私にとっての取っ掛かりはココである。(プラス薬!!)

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