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A市のこと(9/7)

やっぱり書かない。なんだか書いてはイケない気がした。良い所も悪い所もあった、当然。それはどこでも一緒だ。
「書いてはイケない」とは、あまり知った様な口はきくべきではないと思ったからで。迷惑もかけたし、良い所しか書きたくない。良い思い出しか。だから、二つの情景だけ。

或る時、僕はA市のホテルで働いていた。小高い場所にあったので、駐車場の或る場所から、A市が一望できた。疲れ切っていた。もう、限界は越えていて、それでもゴマカシ、ゴマカシ働いていた。去るべき時を予感していたとしか、今は思えないのだが、夜に仕事が終わって、その駐車場からA市の夜景をボーッと見ていた。延々、延々見ていた。僕より遅く仕事を終えた人達が車で通り過ぎていった。だが、それらは風景以上に風景だった。失礼な話である。変にロマンチストになる時があるのだ。一時間半も夜景を眺めていたろうか、次第に雨も降り出した。ポツポツ、降り出した。それでも、雨も人と同様、風景だった。僕は夜景に融けて、夜景が僕に融けた。それまでの経緯、出会った人々、場所、半年とちょっと過ごした街に思いは募った。勉強するつもりできたスピリチュアリズムの、殆ど勉強できていないこと。それでも、心配して会ってくださった優しい先生のこと。職場の人ともサヨナラだと、奥底では理解してた。行ったお店や、ゴミ拾いしたビーチや…。
時系列は滅茶苦茶になるが、そのビーチで後日、ホームレスのおじさんにペットボトルの飲料を上げたことがあった。観光市であったA市は、ゴミが路によく落ちていて、その狭いビーチとて例外ではなかった。ゴミ拾いしてて、ホームレスのおじさんが寝ていて、邪魔にならないよう、避けて通った。その時は早朝で、そのおじさんの幸福をお祈りしたと思う。去り際、ふと思った。祈りだけで何もしないのでは、そこいらの宗教者やスピ連中とまるで一緒だと。コンビニで飲み物を二本買い、おじさんとこに向かった。日の出はあまり綺麗でなかったが、今、少し昇った赤い太陽の方が美しく思え、その飲料、ペットボトルにそっと太陽を礼拝して祈りを込めた。おじさんは木の桟橋のような所にいて、ハトが群がっていた。なついていたのだと思う。朝の光の中、まるで神的な物語のように飛び立つ。ホームレスに身を落とした優しさを象徴するように、その情景は美しかった。本当に神話のごとくに、いっせいに飛び立ったのであった。あのように美しい邂逅を、僕は知らなかった。おじさんに挨拶をし飲み物を勧めると、一本しか受け取らなかった。矢張り、オドオドしてはいたが、優しい人相だった。僕は祈りとペットボトル一本で、美しい憧憬を得た訳だ。いやはや、どちらが与えられたのか、分かったものではない。与えるつもりが、大きな、実に大きな恩恵を与えられたのであった。これは正に象徴的なことだ。A市に関しても。何様なのだ、僕は、勉強し、社会に役に立つ人間になりたいと思っていた。だが、与えられてばかり、迷惑をかけてばかりだ。
それは、夜の駐車場でA市の夜景を眺望しながら、思ったことであろうか?いや、ただ眺めていただけである。来し方と行く末を。もう見ることはないと思わないと、あれだけ長い時間、一所ひとところにはいない。勉強も、仕事も、恋も、全て終わり。又、次なる景色が続いていく。確かに、僕はA市を見た。人の心の美しさも、醜さもみた。それは、自分自身であった。気が変になり、気が狂って僕は去るのだが、狂気の美観と恐ろしさ、全く、世界とはおかしな、おかしなものである。おかしな人間、僕に、おかしな世界があるだけかもしれぬ。多分、そうなのだろう。しかし、世界は生きるに価値あるものと知った。ただ、それだけのこと。ただ、それだけのことである。A市に感謝。江原先生や、出会った人々に感謝。

追記
ホームレスを助けるとか、世話をすることが全部善ではないことくらいは知っている。自分の愚かな行為でしかないのかもしれない。
ただ、情景の美しさ、それを感じたということを記したかっただけである。本当に、それ以上でも以下でもないと信じて欲しい。


<A市、乞食、狂者>

鳩の群飛ぶ神殿に
嘆きの声を充たしたる
それは悲しき乞食なり
一度落ちたる底辺は
這い上がり登るを拒絶して
中々至難の業なれば
その底辺に長居して
心地よさすら覚えたり
人の苦難をあざ嗤い
己の身すら軽視して
自殺すらをも殺したる
そは勇敢な乞食なり

己は恵む狂者なり
世界を恵む狂者なり
己も世界も乞食も
愛して止まぬ狂者なり
鳩の舞い飛ぶ朝焼けに
乞食と狂者は出会いたり
各々貧しく狂おしく
与え与えて、与えたり
その永遠の朝陽には
幽かはるかな様なして
真と善との容器たる
神の美すらがゆらぎたり

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