私の「自我」のイメージは仏教や禅の教えだったんだ

一つ前に書いた記事、
途中からちょっと自分でも書いてて違和感があり(笑)
それで、その続きが書けなくなっていました。

それで、そもそも「自我」という言葉の捉え方って色々あるよねって気付いて。

もしかしたら私の頭の中にあった「自我」とは仏教の教えに近いんじゃないか?と思って調べてみたら、やっぱりそうでした・・・・

1つ前に説明していた事は近代の「心理学」における「自我」の解釈。
でも、先人は古来より「自我」の在り方が人の幸福感と関わっていることを知っていたのですよね、それを説いたのが宗教なのでしょう。

「自我」の扱いって、本当に不可解なものなんですね・・・
「自我」が全く無い人は、それはそれで困るし、強すぎると辛いし、
これってきっと人間の永遠のテーマなんだわ。

私がサラッといくつか読んでみたものを、勝手に解釈すると、
(理解が浅すぎて、その道の方に叱られそうですが(^^ゞ)

そもそも、自分なんて大した存在ではない事を知れ!

そういう事なのかなって、思いました。
知らず知らずのうちに作り上げてしまった、自分自身へのイメージが自我でありエゴ。(仏教や禅の考えでは)

例えば失敗して落ち込むのは、心の奥底で出来るのが当たり前と思っているからだと。それが「自我」

そんなのを背負っているから辛くなる、
それらを全て捨ててしまえば、楽になるよね?ってこと。

そういうのを禅の教えで「法下着」(ほうげじゃく)というのだそうです。

ただこれは全ての人に当てはまる事ではない、とも書いてあり、それもそうだ、と頷けました。

今の生活に窮屈さを感じていない、馴染めている人は、別にその自己の執着を手放す必要はないですものね。十分幸せなのですから。

それに「手放す」こと自体がそう簡単にできることじゃないですからね(;^_^A
だから一生懸命、修行に励むワケです。

だけど、思うに
ある一つのこと、それが好きで好きで仕方なくて極めようとする人は、
仏教や禅の世界に足を踏み入れなくても
自然と必要のない余計なものを「放下着」する境地を見る事ができるのかもしれません。

そんな時、「自我」は無く
時間も空間も他者とも隔たりのない「自分」になっていて、奇跡的なパフォーマンスが可能になる、

これぞ、この世界での自分の本当の役割を全うできた幸せを感じられる、ってこと?

師匠がいう「自我を消せ」って、きっとそういう事なんだ・・・

「自我」についてあれこれ考えてみましたが、
とても奥深くて、大変勉強になりました(;^ω^)

そして私も、日々精進したいと思います・・・・

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?