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朝夷奈切通(あさいなきりどおし)を歩く

先週用事があり神奈川に滞在した際、朝夷奈切通あさいなきりどおしに行ったのでルポです。

時間の関係で切通を通って鎌倉まで行くことはできず、横浜側から鎌倉に向かって大切通おおきりどおしまで歩き、そこから引き返して帰りました。

時間がない中ここに行ったのは、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が大好きだったのもありますが、なんとここ、

北畠顕家・北条時行が通っているのです!

北畠顕家らは南北朝時代の人物です。

足利義詮・斬波家長守る鎌倉を攻める際にここから鎌倉入りを果たしたそうです。

朝夷奈切通で戦いがあったという記録はないので本当に通っただけだと思いますが、顕家・家長ファンとしては気になる場所でした。

そもそも朝夷奈切通って?

まず切通とは、山や丘を切り開いて作った道路のことです。

鎌倉には7つ切通があり、この朝夷奈切通は最も標高が高く、また北条泰時自ら監督指揮して作られた切通。

ちなみにこの切通は「朝夷奈あさいな」と読むが朝夷奈切通がある場所は「朝比奈あさひな」。

地元の方によると「あさひな」が訛って「あさいな」になったと考えられているようです。

また、朝夷奈切通の住所は

 神奈川県横浜市金沢区朝比奈町。

金沢文庫などが有名なあの金沢区です。

つまり、金沢貞顕(北条実時の孫)の金沢なのです!楽しいですねえ。

金沢口から出発

朝夷奈切通は港から物を運び込むために出来た道なので、鎌倉から港に向かって伸びています。

港は今は六浦むつうらですが、当時は六浦津むらのつと呼ばれており、安房、上総、下総などから物資を運んでいました。

また鎌倉の海で塩がとれなかったため、六浦で塩をつくっていた模様。

そんな港がある金沢口(=横浜側)から鎌倉に向かってスタート。

入口近くには上総広常かずさのすけひろつねの供養塔がありました。
この辺りが上総の領地だったそうです。

上総供養塔
入口に立つ「鎌倉殿」の旗
神秘的な石仏


雰囲気は素敵ですが、上の写真のように真上を高速道路が通っていてかなり騒がしかったです。

高速道路の下を抜けると、岩壁がどんどん大きくなっていき、騒音が離れていきます。

巨大な岩壁

岩壁の上の方はぼこぼこと人が何人か入れるくらいの横穴があり、ここに兵が隠れて攻撃していたよう。

道脇にぽっかりと空くスペース

写真だと分かりにくいですが、道の途中不自然にひらけているところがいくつかありました。

攻撃から身を守るためか、岩壁の真下にあることが多いです。

顕家様が馬をここで休ませたりしていたのかもしれない・・・と1人で妄想。(馬を休ませるには早すぎる場所)

その先を行くと、三叉路にあたります。
金沢口から見て、右に行くと大切通を経て鎌倉、左に行くと熊野神社

後で熊野神社に行くことにして、まずは大切通へ。

大切通

大切通

ここは岩壁が1番高く、本当にこの巨大な岩を人が掘ったのか?と疑ってしまいそうです。

切通をつくるときも大工事だったようで、人が休むため、また道具や切り出した岩をおくために面積も広くとられていました。

明治時代には茶屋も作られ、休憩所となったそうです。

そして写真の右下に何か掘られています。

磨崖仏まがいぶつと呼ばれる、岩や大きな石を掘って作られた仏様です。

金沢口から歩いてくると、振り返って見える位置にあるので、ちょっとびっくりしました。

これは切通を通る人々の安全を祈って掘られたと言われていますが、実際のところはいつ作られたかは不明のようです。

しっかりと形が残っているので、意外と最近だったりして。

よく見ると微笑んでいて、心が癒されました。

お供えものに木の実が並べられていて、まるで動物が置いていったかのよう。

大切通を引き返し、次は熊野神社に続く道を歩きます。


こちらは道幅が狭く、泰時が整備する前に使っていたと言われる道です。

確かに大きな岩も石もなく、大工事する必要もなく道をつくれそう。

熊野神社

岩壁のない細い道をしばらく進むと、階段が出現し、突然神社が!

杉の木が守るように神社を囲んでいるため、近くまで行かないと気付きませんでした。

 案内板によると

源頼朝覇府を開くや朝比奈切通の開墾に際し守護神として熊野三社大明神を勧請せられしと・・・

熊野神社「御由緒」

「朝夷奈切通を開墾する際に頼朝が守護神としてここに熊野神社を建てた」

ちなみに
 頼朝が亡くなったのは1199年
 朝夷奈の開削工事が始まったのが1241年

 何か間違って伝わってしまったのでしょうか。

この神社は鎌倉から見て鬼門の位置にあるので、頼朝も何かしら絡んではいるかもしれませんね。

神社は舗装されているのか綺麗でしたが、灯籠や狛犬の像はどれも古く苔むしていました。

灯籠の表と裏

右の写真を見ると、「寛永十二年」という文字があり、ちょうど参勤交代が始まった年ですね。

そして百姓の名前が連ねられていました。
この人たちは徳川家光の時代に生きていたんだなあ・・・なんて思っていたら、次に見た狛犬の土台に「満州国」の文字が。

右が全体像

ネットで調べただけですが、金井周次さんという人は満州特産工業株式会社の監査役をしていた人のようです。

わざわざ石に掘るということは、これは満州から来たのでしょうか。それか満州に渡る記念に寄贈したもの?

追記
はーぼさんがコメントで教えてくださったのですが、満州は昭和7年に建国されたので、石碑に書かれている昭和2年の時点では存在していないようです。
とすると、この石はいつ作られたのか・・・。
謎が深まります。

 そして石に掘られた文字の風化具合から、やっぱりさっきの磨崖仏は少なくとも江戸時代以降じゃないかな、と思いました。

毛利の家紋もどき と 驚く顔

神社内を一周し、時間もギリギリだったので帰路に着きます。

こじんまりしたところでしたが、見どころのある謎多き神社でした。

帰り道に見つけた、石を並べて作られた階段。
こんなのを見るとスキップして降りたくなりますが、石がグラグラしていて転けそうになるので注意。

あとがき
朝夷奈切通は鎌倉の王道観光スポットではないかもしれませんが、高速道路付近以外は切通もほとんど残っていたし雰囲気満点でとても良いところでした。

上総供養塔の他にも、今回は行きませんでしたが和田義盛や梶浦景時ゆかりの地も近くにあるので、ディープな鎌倉巡りとして行ってもいいかもしれません。

そして何より、人が少なく気軽にタイムスリップできるので、私のように電車や人混みが苦手な人にはおすすめです。

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