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牌に愛された子どもたちのこと

 最近、女子高生麻雀漫画にハマっているのです。ブームからすると数年遅れだけど、まだ連載続いてるので遅いとも言い切れないあたりがなんともいえない気分になる。

 ということで、これです。『咲 -Saki-』シリーズ。早々に電書で全巻揃えて、配信で一通りアニメシリーズも見た(のでDVD版がどうとかだの特典映像だのは見たことがないのです)。あと半年早くハマれてたら実写映画も確実に見に行ってただろうに、なんともいえない間の悪さが実に自分らしいとも思う。自分の遍歴を思うと「全国区まで行く高校競技ものの作品」に足を突っ込んだのが下手をすると『帯をギュッとね!』以来(もちろんこれも連載リアタイではなかった)なので、空白期間があるにも程がある。

 で、何に転んでいるのかというと、勝敗のつく競技ものだから当然勝ち負けがあり、どう勝負するかというスタンスの話があり、才能の差があり、最強とは何かみたいな話にもあしを突っ込み、そして何より。

 「麻雀を打たされている」という表現が出てくるのである。

 これに痺れたのだ。というかこのフレーズを浮き彫りにするためにひたすらえんえん、十年以上もシリーズ展開してるんじゃないのかという気配すら感じる。どういう話かというのを後段で触れる。入れあげているファンの妄想も甚だしいので話半分に。

「牌に愛された子どもたち」とは何者か

 「牌に愛された子供」とは、作中最強能力者に与えられる通称である。

 いかにも、咲シリーズは能力麻雀である。地味なジンクスから明らかな超能力の類、それどころか魔術妖術巫術の類まで、雀卓の上でしのぎを削るとんでもない世界観である。これらのなかでも最強の(おそらく)四人をこのように称する(ファンサブを軽く読み漁った結果だけども、妥当性があるように見えたのでこいつらがそうだろうと認識する)。

 地区予選編のラスボス、 自分以外誰も和了れなくする「一向聴地獄」 と、 絶対に海底で和了る能力 を兼ね備えた 天江衣

 主人公の姉にして高校生チャンプ、 相手のすべてを解析する「照魔鏡」連続和了すれば和了するほど早く高打点となり一方的に相手を虐殺する 能力を兼ね備えた(まだなんか隠し玉もあるらしい)宮永照

 相手の配牌を五向聴以上に固定する「絶対安全圏」 と、 絶対にダブリーをかけてから必ずハネマンを和了する「ダブリー270度」 を持つ 大星淡

 神を降ろしてトランス状態となり、(おそらく)天和か九蓮宝燈を連発する という(本編では本領発揮していないが、自意識がなくなるところまでははっきりしている)霧島神境の巫女、 神代小蒔

 彼女ら以外の能力者にも、 ドラを問答無用で独占する だの 未来予知 だの おっかけリーチが必ず先行者に直撃する だの、あるいは カンすると必ず自分が有利な状況になる(これが主人公である) だの、絶対に卓を囲みたくなくなるろくでもない能力者が跳梁跋扈している高校女子麻雀全国大会だが、おそらく「牌に愛された子」と同定されているのはこの四人になるはずである。

 というのも、彼女たちの能力には、ある共通した傾向があるように見えるからだ(宮永照はちょっと例外にも見えるのだが、これについては後述)。

愛された子、あるいはゲームを破壊するものたちについて

 外伝を含めた『咲』シリーズの作中で、形を変えて幾度も、たぶん肯定的に取り上げられることばが、ふたつある。

 ひとつ。「麻雀は四人で打つもの」。
 ふたつ。「人間は予想を超えてくる」。

 これらが、いってみれば作中で取り扱われる「麻雀のあるべきかたち」に近いラインにあるのだろうというアタリがつけたくなる。というのも、先述した四人の「愛された子」たちの能力は、 このふたつのフレーズを棄却する ことに特化しているからだ。

 彼女たちは、 能力の導くままに打ち続ければ必ず勝つ
 同席しているプレイヤーが誰だろうが、どんな状況だろうが関係ない。いや、同席している他の三人どころか、 彼女たち自身の意志すら関係がない。特に大星淡と神代小蒔の能力で顕著だが、必中のダブリーにしろ神降ろしでのトランスにしろ、 絶対に勝てる動きを始めたが最後、マルチプレイヤーゲームをする余地が消滅する のである。

 後発で始まった外伝『シノハユ』の主役である白築慕のパーソナリティが、 勝つか負けるかわからない状態で勝つために力を尽くすのが最高に楽しい という代物で、これが「生粋の麻雀狂い」と評されているのも示唆的である。この「勝つか負けるかわからない不確定な状態」は現実の麻雀そのものであり、四人の思惑が絡み、人は予想を裏切り、そして運は支配できないものなのだ。どこがどうなるかわからない。だから麻雀は楽しい。何がどうなろうが絶対に勝つことが約束された、誰の意志も介在しない麻雀は、すでに麻雀ではない、もっと何か別のゲームである。

 「牌に愛された子供たち」は、絶対的な牌と運命からの愛と引き換えに、 人と交わり戯れることを禁じられている

聖域を汚すもの -宮永咲の役割

 宮永照の能力だけが、セオリーから外れている、と言った。
 仮に「愛された子」が「他人と遊ぶことを拒絶する」ことに特化しているとすると、宮永照の照魔鏡だけが不自然に浮いている のは明らかである。
 どんな相手でも捻じ伏せることができる絶対の能力者であるならば、そもそも 相手を理解する ための能力などは不要なはずだし、実際、他の三人はそれで大概勝ってしまう。

 宮永照だけ浮いている理由、を説明できそうなスジが、実は作中にある。

 主人公、宮永咲の存在である

 宮永咲は、いろいろ面倒なことを置いておくと 強力だが相手に対して対応しなければ勝てない タイプの能力者であり、そしてこの特性ゆえに 単純な支配力比べでは勝てない相手の隙間をついて破綻させる ことができる。

 敗北できないがため、 他人と同じゲームで遊ぶことができなかった ために孤独に苛まれていた天江衣は、作中で咲との対決に敗れる(=絶対の勝利を無効化される)ことによって孤独から解放された。

 そして、宮永照は宮永咲の姉であり、幼少期に麻雀で対戦していた(何か家族内で、児童虐待まがいの特訓が行われていたことを疑わせる描写がある)相手である。はじめて戦闘モードの天江衣と対峙した咲が抱いた感想は 「ちっちゃいころのお姉ちゃんよりひどい」だった。

 これは気になるポイントだ。「ちっちゃいころのお姉ちゃん」。宮永姉妹は、別居中の両親に連れられて、少なくとも小学生から、遠く長野と東京に別れて暮らしている。そして、中学の時点ではふたりとも麻雀に触れることすら忌んでいた。つまり、その前の何処かの段階で「ちっちゃいころのお姉ちゃん」と「それ以降」を分かつ何かがあった、と考えるのが自然である。

 これらを勘案すると、幼少期、別れる前の段階で、 宮永咲は一度、宮永照の絶対支配を打ち破っていた 可能性が高い。その時点で、宮永照は大幅なスタイルの変更を余儀なくされ、 他人を見るための能力に開眼した のではなかろうか。その結果として、ほかの「愛された子」たちを抑え、宮永照は高校生全国チャンピオンとして君臨する。なぜかと言えば彼女だけが、作中の「麻雀の本質」に近い、「一人で打つものではない麻雀」を得ていたから、である。

 県予選決勝、宮永咲は天江衣に「一緒に楽しもうよ」と呼びかけた。同卓していた、宮永咲と天江衣の支配の余波で死にかけていた普通人は、それでも自分を取り戻して、ふてぶてしくも「そろそろ混ぜろよ」と笑ってみせた。つまりそこに、連れ出すものと連れ出す先が生まれた。

 宮永咲は 孤独の中にある「愛された子」を連れ出す ものとして存在する。

 だが、こうなると気になるのは、連れ出した宮永咲自身はどうなるか、だ。

誰が王子様を助けてくれるのか? -あるいは二重の鳥かご

 『咲』は十年以上も連載の続く長寿作品である。外伝も、漫画だけで4本出ている。途中から他の参戦チームの過去を掘り下げてキャラを建てる方向に行ったので、回想パートも豊富に含まれている。

 だが、今を以てなお、具体的に宮永咲の過去が描かれたことはない

 フラッシュバックで不吉な映像が現れたり、断片的なシーンが描かれることこそあるが、それがどう連なって今の宮永咲に、あるいは宮永照との長きに渡る別離へ繋がるのかが一連なりのピースとして描かれたことはないのだ。

 そしてもう一つ、 作中で宮永咲が「異常な支配力」を持たない・対等な(高校生の)人間に敗北したことはない。非能力者と勝ち負けが出そうな場面であっても、常に同卓した別の「強力な支配能力」を持つ人間との支配力のぶつけ合いで勝負が決まるような格好になっている。

 つまり、 絶対の孤独から「愛された子」を救い出す宮永咲 は、今もなお 普通の人間の世界に降りてきたことがない とも取れるわけだ(事実、特訓と称して能力の作用しないネト麻を打たされたときには惨敗している)。

 明らかに何か重い過去にとらわれている描写が繰り返される点と合わせて、最終的には宮永咲自身が 「救い出される」展開があって欲しい、と思いたくなるような塩梅である。

色々書いてきましたが

 今更ながら、こういうなんか『修羅の門』とかスジ読みするのが大好きな人も大いに楽しめそうな風格のある作品ですので、読もう。『咲』シリーズ。

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