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ラベリング|サティを入れる。

ラベリング。奥が深くてラベリングに対する理解がまだ浅い私。私の知識が正確なら、ラベリングはマハーシ・サヤドーが発明した。上座部仏教の在家の方でもヴィパッサナー瞑想が出来るようにと、マハーシ・サヤドーが作ったのがマハーシシステムだ。在家がヴィパッサナー瞑想を行うには、最適な方法だとされている。

在家向けのヴィパッサナー瞑想には、マハーシシステムの他に、ゴエンカシステム、パオシステムがある。他にもあるのか、私は知らないが、確かスリランカシステム?みたいな名前のものがあると聞いたことがあるような気がする。←すごい曖昧。

話をラベリングに戻そう。

ラベリングについて説明する為には、まず、「サティを入れる」という言葉について説明しなければならない。マハーシシステムでは、「サティを入れる」。サティとは「気づき」のことだ。例えば、マインドレスネスな状態で考えていたとしよう。思考の連鎖が続いている。思考の連結車両に新たな連結車両が次々と繋がれていくイメージだ。さて、それに気づくことによって、思考の連結車両がそれ以上、連結されないようにする。思考の連結車両の後続を断つ。思考の後続切断と言える。この「気づき」がサティである。

もう少し「サティを入れる」について詳しく説明しなければならない。

ここに原始仏教で説く認知のプロセスを図示する。

対象→六門→識→受→想→尋→行

対象とは人間が五感(正確には六門)で感じ取る対象のことだ。

六門とは五感と、もうひとつ意門と呼ばれる感覚器官の6つを言う。意門とは、人間の頭に浮かんでくる思考やイメージと言ったものを捕える感覚器官のことを言う。一般の現代日本人には馴染みの無い捕らえ方かもしれないが、原始仏教では、この意門というものがあると説いてる。

識とは認識作用のことだ。

対象と六門と識が触れ合って、心が生まれる。心は一瞬一瞬、生滅変化している。

受は感受作用のことで、楽受と苦受、それに不苦不楽受に分類される。楽受は楽受は心地良い感受作用。苦受は不快な感受作用。不苦不楽受は楽受でも苦受でもない感受作用。

対象 → 六門 → 識 → 受 と時系列で発生する。対象と六門と識が触れ合った後、楽受、苦受、不苦不楽受のいずれかが発生する。

想はイメージや概念。

例えば、カラスの声を聞いた時、感受作用が生まれた後、「音」という概念が生まれる。

尋は、想で生まれた「音」という概念について「これはなんだろう?」と意識が対象にフォーカスして、対象に入り込んで行き、対象を掴むことを言う。カラスの声を聞いて「音」という概念が発生した後、「これはカラスの声だ」と判断する。これが尋だ。次に「カラスか。嫌だな」などと嫌悪感を抱いたとしよう。この嫌悪が行である。以降「怖いな。ゴミを漁ったりするよな」などと思考の連鎖が続いていく。この思考の連鎖を断ち切るのが気づきである。気づくことによって思考の連鎖を断ち切る。思考の後続切断。さて、これは行まで認知が進んだ場合のことだ。想まで認識のプロセスが進み、尋の前の段階で気づくと「これはカラスの声だ」という心が生まれない。単に「音」という認知が発生するだけだ。後続切断は思考だけではない。このように、行が発生する前、尋が発生する前、想が発生する前の段階で気づくことで後続切断が行われる。もっと前の段階でサティが入る人もいる。サティを入れることによって、後続切断が起きる。

気づいた後にラベリングは行われる。ラベリングとは、自分の心や体の状態を言語化して客観視することだ。カラスの声を聞いたら「音」とラベリングする。歩いているときに足が地面から離れたら、「離れた」とラベリングする。気づいた後、対象をラベリングするのだが、このラベリングには認識確定の効果がある。頭の中の概念を言語で整理するのだ。

気づく。 → ラベリングする。

この「気づいて、ラベリングする」ことを「サティを入れる」と言う。

「ブッダの瞑想法 ヴィパッサナー瞑想の理論と実践」に詳しく書かれている。


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