そこにある感情と過ごす コバエと娘
こんにちは、TO-JIBAのひろみです。
マインドフルネスでは、湧いてくる感情をジャッジすることなく、ただ味わいます。
人は、快を求め、不快を避けます。
これは脳の特性だけではなく、長年刷り込みもあります。
明るく元気、という誉め言葉はあっても、悲しさを味わいつくせてすごいよ、なんてことはありません。
悲しさや寂しい感情は、嫌なものとして、大人になると無意識に避けます。
インサイドヘッドという映画を見たら納得するように、どの感情も必要だからそこにあり、未消化な感情は、わだかまりとなり、心身の不調に繋がります。
どの感情もそこにあることを認めることで、癒しがおきます。
コバエを見る娘
先日、末娘が机をじーっと見ていました。
消しゴムの黒いカスに混じり、コバエがいました。
さっきから見ていたのは、コバエ。
私も一緒に観察したら、細い手足を動かし、少し飛んだり、コップにとまったり、逆立ちっぽい動きをしています。
だんだんと動きが鈍くなり、やがて動かなくなりました。
みるみる、娘の表情が曇り、床に突っ伏して静かに泣きました。
死んだことが悲しかったようです。
娘は昆虫が苦手なのに、手塚治虫のブッダを読んでから、ハエも殺さなくなりました。
目の前で命が終わり、悲しかったのだと思います。
私はかけることばが見つからず、ただ寄り添うしかできません。
悲しさから逃げる
大人になると、悲しいことは味わいたくないので、フタをします。
じぶんばかりではなく、悲しんでいる人を見ると、じぶんを投影させてしまい、「無意識にじぶんのために励ましてしまう」ことがあります。
私は、お別れのシーンが苦手で、きちんと挨拶を言えませんでした。
もう会えないと思うと、なおさら。
大人になってからも送別会で、みんなが盛り上がっている隙に、頂いた花束を持って「そーっと」帰ろうとして見つかり、怒られたこともあります。
おばあちゃんのお見舞いも、いつもは近くで手を握って「また来るね」と言って帰るのに、言えない日がありました。
その日はお別れを言うと、もう二度と会えなくなるような気がしたからです。
病室のドア越しに、平静を装って明るく「またねー」と言いました。
予感は的中し、その日が本当に最後になってしまいました。
後悔しました。
なんで、きちんとお別れを言えなかったんだろう。
そんなじぶんを許せませんでした。
許せない、とじぶんに腹を立てきたので、私はなぜそうしてしまうのか本当のところがわかりませんでした。
怒られたくないから、ウソをつく子どものようです。
マインドフルネスで、感情を受容することを繰り返し、やっとじぶんの本音が聞けました。
悲しさを受けとめきれなかったから。
ポジティブなじぶんは良いけれど、ネガティブはダメだと、無意識にジャッジしていました。
世間に、明るく元気に頑張りましょう、ってずっと言われてきたから、悲しんではダメだと思っていたようです。
腑に落ちて、わだかまりが解けました。
笑わない子ども
末娘は、笑って、と言われて笑いません。
集合写真で、ひとりだけ異次元にいるように見えることもあります。
きっと、笑う意味がわからないから、しないだけのこと。
自由に笑いたい時は笑い、悲しいときは悲しみのまま。
誰かの指図で機嫌を直すことがありません。
今を生き、じぶんを生きています。
コバエが亡くなった翌朝、娘はいつものように起きてきました。
私が新聞のお悔やみ欄を見て、町の人がふたり亡くなったって、と言ったら…
娘は…「コバエ」もなんだけどね、と。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
良い一日でありますように。
自宅にいながら湯治場に。
オンライン上で心と身体が整い、本来の穏やかな自分に。
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