【雑記】J-popの歌詞から見る「表現の自由」について。


今日は音楽の話。

何やら燃えている。

どうやら、今年の熱闘甲子園のテーマソングを担当した「ねぐせ」というバンドが、そのティザー映像を公開したところ、歌詞に誤字や不適切な表現が散見されるということで物議を醸しているようだ。

特に、「外野」という野球に関連する言葉をネガティブなニュアンスで用いたことが、強く批判されている。

加えて、この騒動に対してバンドメンバーがXにて謝罪文を投稿したところ、その文章までもが誤字だらけ、かつ稚拙な内容ということでさらに炎上してしまったとのこと。

※詳しい経緯や内容についてはリンクの記事等で見てください。


ぶっちゃけ「しょーもないニュースだな…」と思って見ていたのだが、SNSでの過剰な批判を読んでいるうちに、音楽マニアとしてこれは見過ごせないかもしれないと思い、この文章を書き始めた。


初めに言っておきたいのは、

僕はこのバンドを擁護したい訳ではないということ。

今回初めて名前を聞いた全く知らないバンドだし、曲も別に好みではない。

僕が言いたいことはひとつだけ。

「歌詞は絶対に正しい言葉で書かれなければいけないのか」
ということ。


確かに、歌詞・謝罪文ともに、アーティストとしての教養や表現力に欠けている部分はあると感じるし、さすがにある程度の指摘は致し方ないのかな、と僕も思う。

ただ、彼らをSNSで徹底的に叩く人と、
それを面白がってギャーギャー騒ぐ人たちは
あまりにも暴力的だと感じる。

「正しくない」ことを否定することは、
「表現の可能性」を否定することに他ならない。

これが、僕が見過ごせないと言った理由。


この曲の歌詞に、
「辛(から)い汗を風に載せて」というフレーズがあった。

これに対し、

“汗は辛(から)いじゃなくて、言うとすれば「塩辛い汗」、もしくは普通に「辛(つら)い汗」でいいのでは。

また、風は印刷物ではないので、「風に乗せる」が正しい”

こんな指摘を目にした。
既に本人たちが誤字と認めてしまっているので世話がないが、もしこれが意図したものならば、僕はこの一節は日本語の幅の広さを感じさせるいい表現だと思う。

汗の味は辛(から)くたって、甘くたって苦くたっていいし、
風を手紙のように見立てて、「載せる」と表現したっていい。
僕はそう思う。

日本語というのは幅が広く、
それだけに表現も多様で、自由。
自由の下に、名曲が誕生してきた歴史がある。



例えば、スピッツの代表曲「ロビンソン」。

“誰も触われない 二人だけの国”

という間違った送り仮名が歌詞カードに書かれているし、「ふれない」と間違わないために敢えてそうしたという、「意図的な誤字」を認めている。

また、
“河原の道を自転車で走る君を追いかけた”
という、
句点をどこで打つかで主語が変わってしまうような曖昧なフレーズもある。


平成で2番目の売り上げを誇る
サザンの「TSUNAMI」では、

“止めど流る 清か水よ”というフレーズがある。

「止めど」は名詞で、「清か」は形容動詞になるので、
正しくは「止めどなく流る 清かな水よ」となり、
間違った日本語で歌詞を書いていることになる。


くるりの「ハローグッバイ」という曲は

“始発電車とその次を、なんとなく乗り過ごしてみた”

という歌詞から始まる。
おそらく、乗るはずの電車に乗らずに見送ったという情景描写なのだろうが、
「乗り過ごす」は電車に乗っている時、降車予定の駅を飛ばしてしまうことだから、言葉通りに受け取るとこの歌詞は意味不明になる。


こんな偉大なバンドたちがおかしな日本語で曲を書いている。
語感や韻、世界観を重視し、意図的に、もしくは本当に間違えた言葉を用いている。

特に桑田佳祐氏は、TSUNAMIなんてまだいい方で、もっともっとはちゃめちゃな日本語で書いた曲がまだまだたくさんある。
日本作詞界のレジェンド・松本隆氏の歌詞も摩訶不思議な日本語が多いが、そのどれもが傑作である。

令和の人気アーティストで言えば、あいみょんやヒゲダンだって歌詞をよく見ればめちゃくちゃだ。
Creepy Nutsの「Bling-Bang-Bang-Born」なんて、誤用の次元を超えている。(ヒップホップは元々そういうものだけど)


そんなすごいアーティスト達が、
「正しくない」日本語で詞を書いている。
でもだからこそいい。
傑作のほとんどは日本語が破綻している。
破綻しているから傑作なのだ。
音楽って、表現って自由なんだと証明している。


上記のレジェンド達と、件の若手バンドを並べて語るなと言いたくなるだろうが、今回の炎上で騒ぐ人たちのやってることは、レジェンド達が築き上げてきた「日本語の可能性」を否定していることに繋がっているのだと知ってほしい。


再度になるが、
僕はこのバンドを擁護したい訳じゃない。
内容的に、ある程度の指摘を受けるのは仕方ないかなとも思う。
「外野」の使い方も良くないと思うし、謝罪文はちょっとおバカが出ちゃったね…と正直僕も思っている。
あとこういう系統のバンドは叩かれやすいのも分かる。

でも、彼らのすべてをギャーギャーと否定する気にはなれない。



しかし、SNSでは徹底的なバッシングで彼らの表現すべてを否定する動きが見られる。
何もかも完璧でないと許さない不寛容さが怖いと思った。

その不寛容が続き、広がれば、
今後クリエイターの表現の幅は狭まってしまうだろう。そんなことがあっていいのだろうか。

きっとSNSで騒いでいる人は、音楽に対しての敬意が何もないのだと思う。

僕は音楽への並々ならぬ敬意があるので、
どうかその残忍な不寛容で、音楽の自由を、クリエイターの未来を奪わないでほしいと、切に願っている。




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