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新しさの感性と白い音 読書案内

ハン・ガン著 すべての、しろいものたちの


映画「メッセージ」は、謎の知的生命体との意志の疎通をはかるために軍に雇われた言語学者のルイーズが、︿彼ら〉が人類に「何」を伝えようとしているのかを探るプロセスを軸に、その謎に迫ったルイーズを待ち受ける、美しく残酷で切なさを秘めた物語だ。
SF映画としての面白さだけでなく、生きるとはどのようなことか、もし未来が分かってもそれを受け入れるのか、など多くの哲学的な問いが用意されている。人の痛みの深淵を見ることのできる映画だ。この映画ではマックス・リヒターの「On the Nature of Daylight」が使われている。この音楽は、ありとあらゆる予感(希望・苦難・絶望・喜び)を含み、ゆっくりと揺れるように、私の感性を包み込んでくれる。
「On the Nature of Daylight」が収録されているマックス・リヒターのアルバム「Blue Notebooks」を毎日何度も聞いた。日々の湿度や温度、微かな風、細やかな言葉の連なりによって、意識や思いが変わるように、この音楽に対する思いも変わった。自分の感性の広がりを感じた。一つの音楽と出会うことで、感性が広がる経験をした。

読書でも同じような経験をした。
一つの言葉と出会ったことで、感性が広がる経験をする。これは本を読む楽しさの一つかもしれない。
かなしさに触れる言葉が重なる時、言葉は白く発光する。
もうこれ以上薄くすることの出来ない氷の刃物で、「生」を切り取った時、この本の言葉が生まれてくるのかもしれない。ハン・ガンの言葉は、一瞬で消えていく雪のように刹那で、そして、遠く響く梵鐘のように心の中に染みこむ。

『すべての、白いものたちの』を最初に読んだとき、新しい感性に出会ったと思った。哀しいという言葉でも、痛みという言葉でも説明できない、しかし現実に生きるということを切実に伝える言葉を感じることができる。
おざなりにされた日々のかけらでさえ、ハン・ガンならば、感じ、痛み、そして言葉に出来るのだろう。幸福とか不幸とかいう言葉を使わずに。
本書は、「しなないで、しなないでおねがいー」という言葉とともに2時間しか生を受けなかった姉と、その跡地で生を受けた作者の物語を通奏低音に、壊滅的に破壊されたワルシャワの町から想起される「しろいものたち」を巡る祈りの物語である。

ただし物語を追う必要はない。ページを繰ればいい。そしてそこに書かれている言葉と出会えばいい。思い巡らされた言葉が、詩のように、散文のように、突然降り出した雪のように、散りばめられている。降りしきる雪に、町の95%が破壊されたワルシャワに、亡くなった人たちの声に、ハン・ガンは心を沿わす。

この本の一文でも、一行でも私の心から出た言葉ならどんなに素晴らしいことだろう。ページを繰るごとに、私の枯れ始めた心が、ある深度を伴って動き、痛みを伴い、その先にささやかな勇気を感じることができる。
本書は、『すべての白いものたちの』というタイトルどおり、白い本であり、さまざまの白い紙で表現されている。ページを繰る手に幾種類かの紙の質感が伝わる。本の作りも素晴らしい。文庫本も販売されているが、この本は是非単行本で読んで感じて欲しい。


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