死にたいって誰に言えばいいかわからないし言おうともしない。私の理由について勝手に考えて書く。

「一人で悩まないで」「相談できる場所がここにあります」「あなたの思いをそのまま聞かせて」

Twitterとか、Yahooとかで『死にたい』と検索すると、サーチ画面の上部にこんな言葉が表れる。自殺率が年間3万人を超える日本で、死にたいと思う人たちを救いたい。そんな気持ちの表れが、インターネットのプログラミングされたオートマティックな言葉となって目に飛び込んでくる。

その言葉を見る度に、

う~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!う~~~~~~~~~~~~~~わ~~~~~~~~~~~!!!!!!!

と暴れまわりたくなる衝動に襲われる。死にたいと常に思ってて、自己肯定感が持てなくて、日々申し訳なさを他人に感じて、それでもなぜか生きている図太さを持ち合わせている最悪な人間である私は思う。

まず、死にたいという気持ちは、徹底的な自己否定の感情を伴っている。

自分なんて生きていてもしょうがない。

自分の生きている意味がわからない。

この感情はずっと私の中にある。特になにかきっかけがあるわけではない。ただ、赤色より青色が好きだな。とか、人が握ったおにぎりは食べづらいな。というのと同じように、生きている意味ってないよな、みたいに趣味嗜好のような根本、個人を作るようなところとして思っていることだ。

でも、これは軽率に人に言ってはいけない。

そもそも死ぬという言葉は忌避される傾向にある。いまでこそスラングのように使うが、自殺という言葉はやはり考える人は少ないらしい。自殺のニュースを見ると、親やニュースのキャスターは「なんでこんなことをしてしまったのでしょうか」と言う。相談にのる人がいたら、支えられていたら。人が自らを死に至らしめる感情を最悪の選択肢として話す。

だから、死にたいと思ってもまず親には話せねえな。と思う。

自分がそんなことを言ったら、多分私は怒られるだろう。特に話も聞いてもらえず(というかそもそも聞いてほしくない)、どこか病院に連れていかれるだろう。同じ理由で、兄弟も無理だ。家族というのは、よくも悪くもつながりが厚すぎる。私の構成要素の何パーセントかは家族でできていて、それは家族も同じことだ。それが失われるとなったら、パニックになるだろう。しっかりとした感性をもっていて、家族という共同体をつくっている人生勝ち組の人に自殺なんて言葉を使ったら、その瞬間、私は娘ではなくて、ただの異分子となるだろう。死にたいという感情を、矯正しようとするだろう。そんなことが起きて、家庭内に亀裂がはいるのはだめだ。だから、死にたいと思っても、まず家族には相談できない。

友達にも、死にたいとは言えないなあと思う。シンプルに重すぎる。いきなりlineで「本当に死にたいんだけどどうしたらいい?」と言われたらこいつは頭がおかしくなったと思われるだろう。「えっ、どうしたの。大丈夫?」みたいな困惑した返答がくるんだろう。

話せね~~~~~~~~~~~~~~~~困らせたくね~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。

というか、常日頃死にたいと思っている私からしてみてもそんなlineがいきなりきたら困るのだから、日々忙しく生きている友達なんてもっと困ってしまうだろう。どうしたらいいか当惑してしまうだろう。

一度、きたる就活が不安過ぎてごく軽く、

「でもさ~一番いいのは大学卒業したら自殺することだよね~」

とショッピングモール内の会話の中でなにげなく言ったら、場が凍り付いてしまったことがある。その言葉が放たれた瞬間、友達はどうみても焦った表情を浮かべ、困惑の目を私に向けながら

「え……、死はそもそも選択肢にないけど……」

と言われてしまった。

あんなに場を固まらせてしまったことはあとにも他にもない。

大学卒業と同時に自殺、は割と今でもマジに考えていることである。私は大学が大好きだ。一生を学問に捧げて一つの道を究めた教授の話を目の前で聞けるのだ。普通だったら書籍やテレビ越しにしか考えを聞くことのできない人物が。対話だって質問だってできてしまう。新しい知識を聞けるのが楽しくて仕方がない。一番前の席を陣取り、全身を耳にしていろんな教授の話を聞く。そうやって今までの学生生活を生きてきた。就職をしたらその場所が失われてしまうなんて耐えられない。

さらに、対人コミュニケーションが誰よりも下手な私は、多分就職しても人に迷惑をかけまくるだろう。じゃあ人に迷惑をかける前に死んどくか。でも大学の授業は受け切りたい。そういう感情からでた本心の言葉であったし、実際周りもそうだと思っていた。

違かったけど。

いや~~言っちゃだめな言葉だったな。

と今では反省している。死ぬ、というのは軽く口にだしてはいけないのだ。自分が大嫌いで、生きていることさえ申し訳なく、人よりどんな能力も劣っている私は、常に死ぬことを考えている。死んで、世界から無能な私を消して、迷惑をかけないようにしたい。これは事実だ。私の中で決して曲がらない事実だ。

「そう思わないように努力しろ!」と怒られるかもしれないが、受験、バイト、部活、サークル。全て自分なりに一生懸命やってきた結果、導き出された事実だ。何をやってもうまくいかなかった。何をやっても人より劣った。人と話せない。私がいるとつまらない。もうわかってる。だから死にたい。でも、そんなことは言ってはいけない。他の人はそんなことを考えてはいないから。

だから、友達にも死にたいという相談はできない。

そう考えると、あとは第三者しかない。

自殺対策、でネットで検索をかけると、厚生労働省のホームページがでてくる。電話相談やSNS相談の様々なサイトがでてくる。しかし、同時に、大海原のごときインターネットでは違う情報も手に入る。

それは、自殺などの無料相談窓口は圧倒的に人手が足りていないという記事だ。200回かけてもつながらない。ということが起きている記事を目にした。また、統計からいくと、相談内容の主なことは家庭問題や学生生活らしい。

私が相談している場合じゃないだろ。

世の中にはもっと深刻なことで悩んでいる人間が大勢いるのだ。家庭問題なんてその最たるものだ。子供にとっては家庭がどれだけ人格に影響を及ぼすか、私は知っている。学校もそうだ。親の暴力に悩んで、やっとすがりついたサイトを頼る子供がいるかもしれない。いじめを受けて、誰にも相談できない子がいるのかもしれない。このコロナ禍の状況にあっては、勤めている人たちもいろんな思いを抱えているのだろう。過労死も、よく聞く言葉だ。

いや、私が相談している場合ではないな。

私は親に援助をしてもらいながら大学に通い、なんなら今は休み中だ。休み期間の大学生なんて、この世で一番気楽なのではないだろうか。死にたい理由も「勝手にしろ」みたいな内容である。しかも3食私はきっちり食べている。寝付けないこともない。日常生活に支障もない。うつ病ではない。火急の要件でもない。そんな人間が、貴重な電話回線を使っていいのだろうか。だめだろ。

だから、電話相談やSNS相談はだめだ。もっとしかるべき、手を差し伸べられることを待っている人のもとにリソースを割いてほしい。

精神科のことも考えたが、お金がかかる。バイトをしているし、どこにも出かけないから、お金がないわけではないのだが私のお金はできたら全部学費に回してほしいと思っている。誰に強制されたわけでもないが、生きている意味のない私にかかるコストを少しでも軽減したい。だから、そんな自分が勝手に悩んでいることでお金を使いたくないのだ。それに、病院の場合小心者の私は、どうしても評判を気にしてしまう。死ぬことについて理解のない人だったらどうしよう。前向きに生きろと、言われたらどうしようとぐるぐる考えてしまい、どうしても医療機関に行けない。

という訳で、精神科に行くこともだめだ。

「一人で悩まないで」

いろんなところで聞く言葉だ。だが、一人で悩まざるを得ないから一人で悩んでいる。一人は一人なりに理由がある。

本当に優しい言葉だ。世の中はいい人が多すぎる。私がただ想像でぐちぐち言うだけで、もしかしたら誰かに相談したら心が楽になるのかもしれない。親身になって考えてくれる人と、私のこのめちゃめちゃな精神状態を改善する努力をするべきで、本当は口にするべきなのかもしれない。嫌な奴だ私は。結局自分を変えないでいるんだ。

やっぱり私は死ぬべきだ。



こんなことを書いているが、なんか朝、大学のカウンセリングの予約をとってみた。バイトとかがはいっているから遠く思える6日後に。ひどい。タイトルと行動が全く一貫していない。正直、どうしたらいいかわからない。

ただ、死にたいと、私はちゃんと言えるのだろうか。

なんか言えない気がする。表面的な対人コミュニケーションのことだけを相談して終わりそうな予感がする。そっちも大問題だし、まだ言語化が容易そうだからだ。共感を得られやすそうでもある。

やっぱり、生きている意味がわからないから死にたいとは、誰にも言えない気がする。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?