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ChatGPTと子供の英語教育:革命か、それとも変化なしか?

最近生徒たちによくされる質問は、「ChatGPTが出てきたから、英語は勉強する必要なくない?」というものです。いつかはこのような質問に正面から向き合わなければいけない時代が来ると思っていましたが、2023年はまさにその年となりました。

たしかにAI技術の進化により、私たちの生活は大きく変わりました。特に言語学習の分野では、この影響は否応なく目の当たりにしています。AIが文章を作成したり、プレゼンテーションを作成してくれたりするようになりましたが、本当に子供たちはこれらの技術の出現により英語を学ぶ必要性がなくなったと考えるべきなのでしょうか?私の答えは"No"です。

まず理解すべきは、AIの登場により英語学習の根本的意義が変わらないという事実です。計算機が発明されたときに、私たちが数学を学ぶ必要性がなくなったとは誰も考えませんでした。同様に、Wikipediaが登場したときに、知識を持つ人々が尊敬されなくなったわけではありません。なぜなら、それらの道具や情報源が提供するものは、あくまで基本的なツールや知識であり、それ自体が学習のプロセスを代替できるものではないからです。

むしろこのAIの出現により、英語学習の意義を再確認する機会になりました。

それでは、英語学習の意義は何でしょうか。まず一つ目は、「トレーニング」です。英語を学ぶこと自体が、言語習得という脳と身体を駆使したトレーニングです。このプロセスを通じて、想像力や論理的思考、さらには何かを続けて達成する力(Gritなどとも呼ばれる)が鍛えられます。AIが発達したことで、スイミングにいく価値が下がったという人はいないでしょう。それはトレーニングそのものに意味があるからです。英語も同様で、英語を学ぶでしか鍛えられないような能力があり、さらにはトレーニングを続けることで得られる継続力や、努力の末に達成することの価値は相対的に増えることはあっても減ることはありません。

二つ目の意義は、「文化理解」です。言語を学ぶことは、その言語の文化を学ぶことと同義です。例えば、英語と日本語では論理の構築の仕方が大きく異なります。「Apple」と「りんご」という単語の意味は完全一致ではありません。西洋文化からしてみると、旧約聖書の時代から罪と知識の象徴である「Apple」と、明治時代になつで西洋文化とともに入ってきた「りんご」とでは言葉が持つ意味が大きく異なります。これらの違いを理解し、その言語と文化の成り立ちを理解することが、AIが発達しても変わらない英語を学ぶ意義の一つです。
AIの発展により、我々はいわば一つの頭脳を共有するようになったとも言えます。さらにはAIによる翻訳ツールの発達により、言語の壁は劇的に低くなりました。それがある意味、私たちが単一の文化や風土から生まれてきたような考えを生み出してしまうかもしれませんが、それは幻想です。私たちは異なる文化を持ち、言語はその文化に根ざして生まれたものです。多様性が重んじられる現在において、異なるものを同一と考えるのはむしろ危険だとも言えます。AIの出現により言語を学ばなくなれば、それは他の文化を理解することをやめることにも繋がりかねません。

そして3つ目の英語を学ぶことで得られるものは「身体性」の向上です。AI時代であっても変わらないもう一つの価値が「身体性」です。自分の体を使って経験することの価値は、AIが進化したからといって減るどころか、さらに重要になると言えます。なぜなら、技術が進化し、多くの情報がデジタル化されても、私たちはまだ生身の人間であり、直接的な経験や感情はデジタルでは決して代替できないからです。
また、英語を学ぶことは、単に情報を交換するだけでなく、自分の意見や感情を表現し、他人と深いレベルでつながる力を育むことにもつながります。これらはAIが補完や代替できるものではありません。自分の体を使って旅や留学をして、その中で生まれたserendipityと呼ばれる「偶然性」を取り入れることが、ネットワークで繋がっていない個々の人間が持つことができる強みなのです。

英語学習の価値はAIの進化によって侵食されることはなく、むしろその重要性は高まっています。AIが英語学習を補助するツールとして活用される一方で、私たちは英語学習の真の目的、つまり新たな体験を通じて成長することを追求する価値は変わらないのです。それこそが、私たちが子供たちに英語を教え、自身で学ぶ理由だと考えます。

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