大人になって改めて「ごんぎつね」を読む
自己紹介に変えて一つ文章を書く。
自分が書いた文章を読み返すとき頭の中で想像している映像と文章から読み取れる情報がずれるということは筆者のようなものには往々にしてある。ここでは言わずと知れた有名な物語である新美南吉氏の「ごんぎつね」から文章が巧みであるところを抽出して今流行りの「言語化」してみよう。
そう長くはしない、というかかなり短くすませる。以下に青空文庫版のリンクを貼っておく。
そのあくる日もごんは、栗をもって、兵十の家へ出かけました。兵十は物置で縄をなっていました。それでごんは家の裏口から、こっそり中へはいりました。
そのとき兵十は、ふと顔をあげました。と狐が家の中へはいったではありませんか。こないだうなぎをぬすみやがったあのごん狐めが、またいたずらをしに来たな。
「ようし。」
兵十は立ちあがって、納屋にかけてある火縄銃をとって、火薬をつめました。
そして足音をしのばせてちかよって、今戸口を出ようとするごんを、ドンと、うちました。ごんは、ばたりとたおれました。兵十はかけよって来ました。家の中を見ると、土間に栗が、かためておいてあるのが目につきました。
「おや」と兵十は、びっくりしてごんに目を落しました。
「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。
これは最後の場面で、兵十は銃を取りいたずらな例の狐を撃ち殺すが自分の家の中の栗を見て全てを理解する。しかしもう取り返しはつかない……というシーンである。
日本語に慣れた読者ならば読むのに苦労はしないだろうがこのようななめらかな視点の移動を書き表すのは簡単ではない。
ここで文中で同じ「見る」という行為に対して「目につく」「目を落とす」という表現が区別して用いられているという特徴に注目したい。そうして本文を見ると撃った狐のもとに駆け寄って初めて家の中のくりが見え、真下の狐を見る、という動きが視点という観点からも過不足なく正確に表されていることがわかる。これこそがこの場面で緊張感や臨場感を演出し、読者と兵十との間のごんに対する認識の非対称性を埋め、ラストシーンの切なさをこれほどまでに高めているのではないか。
これから文章を書くときは視点を表す表現が適切かをぜひよく考えたい。予定通り短いがこれで終わりにする。何か意見があればぜひご指導をお願いしたい。個人的なことはtwitterの方で。
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