「死と生」:見たくないものこそ見るべきものだ
また増えたかもしれない体重に怯え体重計に乗らない時、仕事でミスをした時、フラれたのにフったんだと友達に話す時。
人は恥ずかしい失敗談から目を背け無かったことにしようと記憶を消化することばかりに集中する。
しかし、見たくないものほど、認めたくないことほど自分の目でしっかりと見て受け止める必要がある。「死」についてもである。
誰もが、大切な人との永遠の別れを、自分自身との永遠の別れを、絶対に認めたくない。だから、目を背け「死」を毛嫌いし、そして、関係のないことだと自分に強く言い聞かせ、意識下から「死」の存在を排除する。
「死」には、3つの種類がある。
1人称の死=自分の死
2人称の死=自分以外の大切な人の死
3人称の死=知らない人の死(いわゆるニュースなどで流れてくるもの)
みんながみんな、信じたいと思わないこの「死」という理解不能な現象を3人称である死として受け止めようとする。これでは駄目なのだ。「死」を2人称、はたまた1人称として捉えることが、人生を豊かにできるメカニズムであるのに。
ホラティウスはこんなことを言っている。
「死につきあたらなくっちゃ、人間は迷いから抜け出せないものだ」
そして夏目漱石も「死」について語っている。なんの本かは忘れてしまったが、こんな内容であった。
ある人が、"次の日にお金を持ってくる"と言い牛を買っていった。だが、次の日に牛は死に、買い手は損をしたと大激怒。それをそばで聞いていた老人が、"だが君は、命の尊さを学んだ"と言った。
自分や他人の「死」を3人称として捉えていることの危険性を表現している文章だと感じた。
いつ、命が絶えるのかなんて誰にも分からない。
いつも、当たり前に明日が来るなんて誰にも分からない。
「死」が、自身にふりかかっているなんて誰も信じたくはない。
だが、いつか、必ず命は耐える。生きているのだから。
では、どうしたらよいのか。
これは簡単なことであって、全員がすぐにできることである。
「死」を見つめ、自分ごととして、いつか絶対に経験することとして、深く丁寧に受け止めることである。
死を意識するだけで、1日を今まで以上に大切にできる。
これは、自身の幸せのために大袈裟な出来事をしろというものではない。旅行に行ったり、好きなものを好きなだけ食べたり、全財産を使い切って遊んだり、、そんなことを言っているのではない。
幸せになるために至ってシンプルなことをすればいい。
道の端っこに生えている草花に目をやってみたり、育てている植物が少しずつ大きくなっているのを観察したり、空がいつもより広い気がするのもアリで、家族の・友人の・自分の行動に感謝をし、目を見て肌に触れて抱きしめて、言葉を伝え合う。
シンプルだろう。普段見ているようで見ていなかったもの、感じているようで全く感じられていなかったもの、そして伝えられていなかった思いを、ただ思いのままに表現して感じればいいのだ。
普段見慣れていたはずの場所でも、そこが解体され新しいマンションが建てば、"ここって何があったけ"とみんな思ったことはあるはずだ。
こんなふうに、見ているようで見ていないものの方が、人間多いのである。
だからこそなのだ。だからこそ、全てに目を凝らし全力で感じようとする行為が必要であって、そうすれば必然的に地に足をつけて「生きている」ことを実感できる。
ここまで読んで、そんなことないだろうと思った人は、ぜひ一度やって頂きたい。
死を見つめることで、生きることを学べる。
生きることを学べたら、自分が一番幸せだと思いながら強く、たくましく、そして幸福に人生を歩んでいくことができる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?