優しさについて 『手すりほしい女』解説



 「優しさ」が印象的だった。

 本当にどうしようもない時、優しい人がふらっと登場する。それが好きな人であろうと、詳しく知らない人であろうと、優しい人が、目の前や横にいる。


 この頃、「優しさ」について考えることが多い。特定の相手のことを思って、その人が喜んだり、笑ったり、相手まで優しい気持ちにさせるために、自分の中で考えたり、行動することが優しさなのだと考えると、特定の相手を意識的に、または無意識的に傷つける優しさも存在することになって、僕を苦しませる。「優しい」ということが分からないのだ。

 この二つの優しさの中で僕はいつも悩んでいる。優しくなくても駄目だし、優しすぎても駄目だと、気づいたのはつい最近のことだった。

 僕はとても優しい人間だと思う。今まで会った人にも、ずっと近くにいた人にも、さっき会ったばかりの人にも、「優しいね」と言われることが多いからだ。他に特徴がないから、とりあえず相手を褒めるセリフとしては万能だから、と相手が「優しいね」と言うマイナスの理由を考えたらきりがないが、それでも僕は確かに、優しい。

 それは何よりも、優しくしている、という気持ちを持っているからだ。優しい人間だと思われたくて、優しくしている。「優しい」は頭で考えればいくらでも出来る優しくて、易しい行動なのである。


「女の子には優しくしなね」

 僕は母にいつもそう言われて育った。まだ小学生の時だった。その言葉の通りに受け取って、そのまま、女子に、男子にも優しい人であり続けた。でも、優しくしていない男子からの印象はあまり良いものではなかった。当時の僕はそこまで考えて優しくしていなかったのだ。「狙ってやってる」というのは強ち間違ってはいない部分ではあるけど、それでも誰かに優しくしたことによって、僕を悪者のように見る目が許せなくて、でも僕は優しいので(臆病なので)口には出さずに、一人でとても悲しくなったことを覚えている。そして、きっと、絶対にその事を彼らは覚えていない。

 優しい人に優しくない人間は、僕は好きではない。

 今日も、多くの人が当たり前のように誰かに優しくして生きているけど、優しいままであり続けるということは難しい。まだ僕は完全に優しい人間になりきれていなくて、どうしても人によっては見返りを求めたくなってしまう。損得で判断して、計算して、考えて、優しくする人を選んでしまう。だから、無償の優しさを与えることが出来る(そういう人は「与える」という気持ちすら持っていないだろうが)人は本当に凄い。僕には無理だ。

 神様のような、広い心を持っていなくても、それはそれで良くて、「優しくしたい人」と考えた時に頭に浮かぶその人、その人たち、犬でも、猫でも、カブトムシであっても、まずはその相手に優しく出来れば、僕はそれでいいと思っている。優しさを届ける、届け続けることが大切なのである。


 この短編集には、すぐ近くで暮らしている人も、遠い異国で暮らしてる人も出てくるのだが、確かに生きているなと感じる。それは、みんなが優しさを持っているから。生きているから優しさを持っているのか、優しさを持っているから生きているのか、この短編集においては後者であるように思う。

 結局優しい人は優しい人にしかなれなくて、結局優しくしてしまうものだろう。優しくして欲しい時に優しくしてくれなくても、それまでその人から貰った優しさは消えるものではないし、その人は常に優しい気持ちを持っているということ忘れないで欲しい。文字はいい。優しさがそのまま残るから。

 予想外に「ごめんね」と謝る彼も、青い鳥を探していた彼女も、そしてかんのさんも優しいと思う。


 かんのさんのことを知ったのは、『〇〇✕』という短編集がきっかけだった。仲の良い(仲の良い?)ラジオリスナーの方に「書いてみなよ」と勧められ、その気持ちのまま、のせられるように参加した。勿論、僕も前から話を書くことに興味があって、書いてみたくて、応募した。そして実際、とても楽しかった。それまでは、エッセイ(のようなもの)をいつも書いていたのだが、短編集に参加してからは、次はどんな話を書こうかなと想像する日々が続いていて、ついこの前、一つ自分の中でちゃんとしたものを書くことが出来た。書くことは楽しいなと思うきっかけを貰った短編集だった。その楽しさは、昨日も、今日も、今も続いている。


 今回は、かんのさんにお話しを頂き、このような解説を書く運びとなりました。解説にはなっていないような拙い僕の文章でしたが、優しい人が丁寧に書いた文章たち一文一文が、どこかにいる優しい人に届くといいなと思っています。



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