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#45 ストリートピアノでドレミのうたを弾く

 前髪と似合わない髭が伸びて見窄らしい自分。引っ越したばかりで新しい美容院に行くことへの不安があり、前髪を自分で切ることにした。文房具のはさみで。鏡の前に立ち、1cmかそこらを切っただけだったにも関わらず、「切ってやった」という悦に浸り、笑みが溢れた。


 恥ずかしいことがとにかく嫌だ。間違っていないという自信がないと答えることを躊躇してしまうし、周りの人と同じように歩けているかを確かめるためにショーウィンドウの自分を見てしまう。髪型や服装も最低限のラインは超えるように綺麗にする。そして、何でもかんでも分かっているような人を演じてしまう。皮膚を剥がすとそこには、分かっている人を演じている分かることから逃げている人がいるだけなのに。

 自分自身に恥ずかしさを感じているだけならコントールができる。しかし、次第に自分を中心とした恥ずかしさの円が大きくなっていく。恥ずかしさを感じないように他人の行動にもアドバイスをするようになってしまった。コンパスの針で刺された僕は、自分の目で見る自分の姿がほとんど死んで、自分の目で見る他人の姿と、他人の目に映る自分の姿ばかりを気にするようになった。針の反対側に付けられた短い鉛筆は、薄黒くて歪な円を少しずつ描き、同じところを何度もなぞるうちに濃い線へと変わっていく。


 人通りが多い場所に置いてあるストリートピアノ。誰にでも弾くことが許されているはずなのに、暗黙の了解的にピアノを上手に弾くことができる人にしか黒い椅子は座れないようになっている。下手な人が演奏をし、自ら恥をかきにいく必要はない。それでもあの少女は座った。自信満々に座った。

 幼い頃は一つのことができるだけで親に、友達に、とにかく誰にでも自慢したくなった。まるでこの世で初めて自分だけが成し遂げたかのように嬉しくて、楽しくて、面白くて、満面の笑みで自慢していた。覚えていないけどおそらくそうだったと思う。世界が自分を中心に回っていて、それを周りも許していた。

 左手を膝の上に置き、少女は右手のみで「ドレミのうた」を弾き始めた。テンポも音量もとても上手とは言えなかった。喜びがそのまま考える前に右手に伝わって、夢中で白鍵を押す。たまに小さな指が黒鍵に触れ、情けないような半音高い音が響いたが、それでも口が半分空いたような顔のまま弾き続けた。彼女から恥じらいは感じられなかった。

 僕は大人だからそんな恥ずかしいことはしない。大して弾けもしないのに黒い椅子に座らないし、仮に弾いたとしても申し訳なさそうに、居心地悪そうに、罰ゲームで無理矢理やらされてるように振る舞うだろう。


 あの子もいつか知る日が来るかもしれない。あの椅子に座ることは恥ずかしいことだと。ただ、あの無神経さが羨ましくも思えた。無神経さというよりは単純に経験値や成熟度によるものだろうけど、子どものような無邪気さが日に日に失われていき、ちゃんと大人の心になっていることにしっかりと絶望する日もある。


 あの椅子に座れない僕は人目を気にしながら、あのストリートピアノをさりげなく撫でた。鍵盤は押せなかった。幼かったあの少女が僕のようにならないように、と願った。

 洗面台に散らかった髪の毛をしばらく眺めていた。さっきまで体の一部だったものがこんなにも簡単にゴミに変わってしまった。このままでは排水溝に詰まってしまう。緩んでいた表情が少しずつ元に戻り、泣き出しそうなままティッシュで髪を拭い、力を込めて丸め、ぶつけるように捨てた。

 


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