2つの名前

 「もういい!こんな家。」と吐き捨て、必要最低限の荷物を持ち、家を出た。「おい、穂乃。待ちなさい!」最後に聞いた父の声はそれだった。


 特に意味もなく東京に行き、というか、すがるように東京に逃げた。大体3年が経った今となれば、なぜ家を出たのかをよく覚えていない。私の誕生日の次の日、10月26日だったということだけは覚えている。少し遅い、少し大きめの反抗期か何かだったのかもしれない。真面目なサラリーマンの父は一人娘の私に厳しく、いわゆる「父親」を演じているようで気に入らなかった。

 初めの数ヶ月は母から何度か連絡が来た。母はいいつも私の味方で何も悪くないのに、無視をし続けたある日、心配のLINEすらなくなった。「親子の縁が切れたのかな」そう思った。


 学歴もお金も何もないが、中の上くらいだと自負している顔を武器に私は水商売を始めた。人気も中の上。比例するように収入も中の上。じゃあ私の人生は?


 普通の毎日を過ごし、父と同じような年齢の男の人を何人も相手にした。テンプレートのような会話をして、お酒を注ぎ、機嫌をとる。慣れると簡単な職業だった。

 

 12月の半ば。すっかり寒くなり、私が家を出る時間は決まってイルミネーションが輝いていた。私には眩しすぎる。横目で通り過ぎて、当たり前を装った。私も何かを演じているんだ。

 「カエデちゃーん、ご新規さん来られたからよろしくね!」

 「はーい。」と二つ返事をし、テーブルに着くとそこに父がいた。はじめは見覚えのある人だなとしか思わなかったが、数秒の後、父だと気付いた。戸惑いを隠しながらも、

 「こんばんはー!カエデです!こういうお店は初めてですか?」

 「どうも。苦手なんですが、上司に連れられて…。」

 「いい歳にもなって自分の意思はないのかよ」と思ったが、どうやら私には気付いていないみたいだ。「親なら私に気付けよ」とも思った。話を聞くと、出張で東京の本社に来ていて明日支社に帰ることや、意外と上の役所についていること、最近はラグビーにハマっていること、その他、私の中のテンプレートの会話を続けた。何十分か経ち、お酒が回っていたのか聞いてもいないのに、

 「カエデって良い名前だね。私の娘はね、10月25日生まれでカエデっていう名前にしようか迷ったんだ。結局は違う名前にしたんだけど。」

 「うわ、ただなんとなく付けた名前だったのに。」とむず痒い気持ちになった。体の中が熱くなるのを感じていると、いつの間にか終了の時間になっていた。

 「今日はありがとう。何だか娘と話しているような気分だった。」そう言って上司の肩を支える父の背中からは逞しさと寂しさを感じた。父は本当に私に気付いていなかったのだろうか。知らないフリを演じていただけ?考えても分からない。ただ確かなことは、嫌だとは思わなかったことだ。私も大人になった、そう感じた。カエデという仮面を被っていたにしろ、普通に父と話が出来たのだ。


 今年の年末は急に実家に帰ってみよう。きっとすごく怒られるだろうな。たぶん心配もされているだろう。次は「カエデ」ではなく、「穂乃」として父と話をして、お酒を注ぎたい。12月30日の特急列車を予約した。

 

 

 


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