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「知性」と「スピリチュアル」は相反しない。どころか、本質は同じもの。

こんにちは。

「IQ200の超スピリチュアル人間」、たすくです。


この自己紹介を見て、あなたはどう思いましたか?

 「スピリチュアルにハマるとか、ぜったいIQ200ないww」

 「IQを自慢するとか、この人の感性大したことないでしょ・・」


極端なリアクションとしては、このどちらかではないかと思います。


結論を先に書きます。

『知性とスピリチュアリティは、全く相反していません。』

それどころか、

『知性とスピリチュアリティは、本質的に同じもの』

です。


この記事は長いので、その根拠も書いておくと、

『知性もスピリチュアリティも、見えるものから見えないものへ、具体的なものから抽象的なものへ、意識を高めていくことだから』です。


このでNoteはそのことを説明していくのですが、

お断りしておくと、この記事は僕のNoteの中でもダントツに抽象度が高い内容を取り扱います。

なので、できるだけ具体的な説明を心がけました。


誰もが知っていて、イメージができる知性の場。

学校から考察を始めていきましょう。


◆教育の目的とは

最初だけ!ちょびっと小難しい話をさせてください。
お好きでなければ飛ばしてもらっても問題ありません。


僕が知る少し前の教育研究の現場(大学)では、

『教育の目的は、「生きる力」を育むこと。』

とよく言われていました。


これは文部省が言い出したことで、
文部省(今の文部科学省)というのは、要は国の教育のあり方を決める組織です。


彼らは生きる力について、こんな定義を示しています。
(飛ばしていいですからね!)

我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力など自己教育力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を、[生きる力]と称することとし、知、徳、体、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。

(文部省・1996、「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」という諮問に対する第1次答申より。太線部はたすくによります)


『知、徳、体をバランスよく』、とありますね。
それぞれの対応は、以下の通りです。

知=『いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力など自己教育力』

徳=『また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性』

体=『たくましく生きるための健康や体力』


この一番長い「知」に対応する部分は、「抽象度の高い思考能力」と言い換えることができます。


「ただ知識を教え込むだけじゃ社会の変化に対応できないよね!」

「変化する社会でも通用する力を身に着けてほしいよね!」

文部省が言っていることはそういうことです。


そして、

「抽象性」というキーワードを持って学校教育を振り返ってみると、

あらゆる科目において、
「この抽象性を追い求めることこそが学問である」、ということに気づきます。


学校教育の科目において、それらを確認していきましょう。


◆学問は抽象性の追求①国語

お待たせしました。
ここからはめちゃくちゃ具体的な話が続きます。

僕たちが小学校で最初に学ぶのは、ひらがなです。
ひらがなは抽象の反対で、めちゃめちゃ具体的。

ひとつの文字にひとつの音が対応していて、それ以外の意味はない。


ひらがなを学び終えたらお話を読み、

学年があがると説明文を読み、

学習は進んでいきます。


少し飛ばして中高校生になると、
国語の中でも「現代文」という科目が出てきます。

そこで思い出してほしいのですが、

「現代文は論理を学ぶ科目だ」とよく聞きませんでしたか?


そんな現代文によくあった設問、

「筆者が言っている内容にあっているものを選んでね」(内容合致)

「筆者が言っていることを要約してね」(要約)とかでは、

本文中にないものを選んだり書いたりして回答することになります。


小学生の頃は、お花の絵を見て「はな」と書くだけでよかったのに、
ずいぶん難しいことをやるようになったものです。

これが「抽象度が上がった」ということです。


抽象性、ということばをめっちゃ簡単に定義すると、
「共通している部分」。(僕の定義)

内容合致というのは、別の言葉に表れた同じ内容を認識することだし、

要約というのは、ある主張を内容を保ったまま別の表現に変換すること。


ひらがなやら漢字やら説明文やらお話しやら、いろいろ学んできて、

高等教育(に近いところ)でやっているのはこの、
「抽象性に意識を向けること」なんですね。

つまり、国語という科目において10年以上かけてやってきたのは、

この抽象的な思考力を獲得すること、なのです。


◆学問は抽象性の追求②歴史

次は歴史です。サクサク行きましょう。

歴史の学習も、やはり具体的なところから始まります。


前段階の「社会」の授業で、
国というものがあること、私たちが日本に住んでいることを学びます。

具体的です。


そして歴史の授業が始まりますが、
やはり最初は具体的な内容が主です。

『むかし邪馬台国がありました』、

『唐という国と取引をしてました』、

『坂本龍馬という人がいました』、など。


中学生くらいになると、少し抽象度が上がります。

僕が教育実習で見た授業(レベルが高い中学校でしたが)では、

「いわしを干した肥料を作って農産物がたくさん取れるようになって、
市民の生活はどう変わったでしょう?」

というような、

原因から結果を推測するという、
かなり抽象度が高い授業をしていました。


この傾向はどんどん進み、

「封建制度と関係が深いと考えられる建築物の構造は何か」とか、

「ヨーロッパとインドとの文化の違いは何によるものか」とか、

関係性やつながりを問うものが増えてきます。


一つのピークである東大の入試問題では、

「8個程度のキーワードを使って特定の話題について論じる」という問題があります。


求められる能力は、
「キーワード同士の関連性を見抜くこと」、
「因果関係、対比、共通点などの関係性を見抜くこと」

などでしょうか。(もちろんそれを表現する力も)

とても抽象的です。

このように、歴史という学問も、具体的なところから抽象的なところへと次元が上がっていくのです。


ですが!

実は先に挙げた東大入試では、具体的な知識もめちゃくちゃ求められています。

たとえば、キーワード「サイクス・ピコ協定」というものが何を定めた協定なのか知らなければ、この問題にはどうしても答えられません。


ここで一つ重要な点を述べておきますね。

「学問は抽象度を高めていくことを目的とするが、
その前提となる具体的な知識無くして抽象度を高めることは困難である」

ということです。


◆学問は抽象性の追求③英語、理科、(数学はあとで)

英語も同じですね。

アルファベット、単語、という具体的なところから、

表現力、目的を達成する能力、という抽象的なところへ上がっていきます。

もちろん、具体的な知識無くしてそんな難しいことはできません。


理科もそうです。

物理であれば、力の計算とか具体的なものから、

理論物理学とかいう現実世界は存在しないものに発展したり。


(物理の中には具体的なものに帰着することを目的とする分野もありますが、おおよその傾向は同じです。)

すべての学問は、次元が高まれば高まるにつれ、抽象性を増していく。

そいういうものなのです。


さて、次からはいよいよ、
なぜそれがスピリチュアリティと同じなのかを考えていきます。


◆スピリチュアリティは抽象性の追求

「スピリチュアル」というのは魂の成長を求める精神活動です
(ここではそう定義しましょう)。

科学には詳しいけどスピリチュアリティには明るくない、
という方は哲学をイメージするとよいと思います。

哲学とは、

世界や人生の究極の根本原理を客観的・理性的に追求する学問。(略)

(精選版 日本国語大辞典「哲学」の解説)

です。


哲学者が、

「この世界とはどういうものなんだろう?」

「人はどこからきてどこへ行くのだろう?」

と考えるように、

スピリチュアルに関心を持つ人たちも考えます。


「生きる意味って何なんだろう」

「死んだあとはどこへ行くんだろう」

「愛とは何なんだろう」

というように。

これだけ見ると哲学者=スピリチュアルに思えてきますね。
というかたぶんそう。


そんなスピリチュアリティも、具体から抽象へ、というプロセスが欠かせません。


一つ厄介な問題があり、

スピリチュアル追及のプロセスというのは文部省によって定められていません。

まあ、英語や歴史と同じように決めちゃってもいいと思うんですけど、決めたくないという人が多い。そこがちょっと難しい・・


ですが、始まりとなるのはやはり心でしょう。

なぜなら心は誰もが知っています。具体的です。


心は傷つくと痛む、

愛されると幸せを感じる、


このあたりは・前提の、具体的な話といっていいと思います。


そして、さらに抽象度が上がるとどうなるのでしょうか。

スピリチュアル世界では以下のようなことを話します。


心は人生において大きな影響力をもっている、とか。

心こそが人の生き方を決める最重要要素である、とか。

地球は歴史を繰り返しながらも人類は進化している、とか。

人類の進化の先には新しい人類の姿がある、とか。

人類の進化とは愛の実現の過程だ、とか。

愛につながると人は時間を超越する、とか。

時間を超越すると人は5次元世界へ進む、とか。

5次元世界へ進めたということは人はいつかその先の次元に進む、とか。


・・どこまでついてこれましたか?😂

僕の感覚では、一般的に受け入れられるのは
「地球は歴史を繰り返しながらも人類は進化している」くらいかなあと思います(これは歴史を見れば明白)

ここまでの心の成長プロセスは、けっこう誰でも理解できると思います。
そのあたりから先の世界は、言われただけでは受け入れるのが難しいです(じゃないですか?)。

でも、たとえ今の僕たちが量子力学を理解できなくても、
正しく順序だてて学んでいけば必ず理解できるのと同じように、

言われただけでは受け入れられないような世界も、
正しく順序だてて学んでいけば必ず理解できると思います。


◆なぜスピリチュアルは嫌われる

スピリチュアルが問題視されるのは、

スピリチュアルが感覚的に理解されることが多い精神活動であるために、

知性的な精神活動と比べて理論がぶっ飛んでいることが多いからだと思っています。


そして、感覚的に理解したスピリチュアルの人たちが

「ねえねえ!この世界ってこうなんだよ!」と、

聞かれてもないのに大きな声を上げてしまうことも多いです(僕も気を付けます)。

だから、知性的な精神活動を大切にする人は拒絶したくなる。


だけどですね、繰り返しですけど、

スピリチュアルだって、ちゃんと段階を追っていけば、理解できるものだとも思うのです。


だって、心の存在を疑う人は、ひらがなの存在を疑う人と同じくらいいないじゃないですか。

そして、ひらがなの学習を正しいステップで進めていき、

抽象度を高めていけば、理論という目に見えない高度なものを扱えるようになるじゃないですか。


だから、心の学習を正しいステップで進めていき、

抽象度を高めていけば、いつか僕たちが生きている理由とかの、目に見えない高度なものを扱えるようになると思うんです。


知性も学問も、やっていることは同じ。


抽象性の追求。

より高次元なことがらを扱うこと。

見えるものから見えないものへ、具体的なものから抽象的なものへ、意識を高めていくこと。


相反さないどころか、本質的にやっていることは同じ。

であればきっと、

知性はスピリチュアルの助けになるし、スピリチュアルは知性の助けになるはずです。


おまけ:数学

地球上に存在する学問で、もっとも抽象度の高い学問が数学だと思います。

なぜなら、具体性が存在するのがめっちゃ初期だけ。必要ですらない。


りんごを2個買いました。いくらでしょう?というレベルを終えたら、
あとはほとんど理論だけで進んでいく学問です。


ところで、「高次元」というのはスピリチュアル世界ではよく出てくる単語ですが、

僕が最初にこの単語を知ったのは数学の世界でした。


もっとも抽象度が高い学問である数学が取り扱う領域と、

スピリチュアルが知覚している世界がこれだけ似通っているって、

ちょっと衝撃じゃないですか?😉


いつかは知性もスピリチュアルも、まったく同じものとして認識される時が来るのかもしれませんね。

お読みいただきありがとうございました。


◆オンラインサロンのご案内

いろいろな事柄を「スピリチュアル」と捉えてみる、

「スピリチュアルオンラインサロン」をやっています。


別に学問的なコミュニティではなく、意識が高いコミュニティでもなくて、

ただ「愛を実現しようぜ!」というコミュニティです。


ここまで読んでくれたあなたなら、きっと興味を持ってくれると思うので、

案内ページだけでも見てみてください。


例によって、書いたものは僕の魂そのものです😉

スピリチュアルオンラインサロン案内ページ


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