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一凪 [短編小説]

 そのゴーグルみたいな装置をつけると、上が下に右が左に、全て反転して見えるらしい。

「でも、それをかけ続けて生活していると、そのままご飯を食べたり出来るようになるんだって」
 イチは読んでいる本の背表紙を見せた。

 感覚知覚心理学入門、とある。
 きっと神田あたりの古本屋さんで見付けてきたんだろう。字体のいかめしさが古い本だなって感じ。

「トイレは?」
 わたしは尋ねた。

 イチは不思議そうな顔をした。
 さらさらのイチの髪が揺れた。
 男の子にしてはちょっと長め。女の子にしてはちょっと短め。
 イチは毎日髪の毛をアルガンオイルでお手入れしている。

「そのゴーグルをかけてトイレに行けるかしら、と思ったの」

「どうだろうね」
 イチは寂しげだ。

 意地悪しちゃったかなと思う。
 イチは学校でトイレに行くのが苦手なのだ。

 お昼休みになるとイチはわたしを呼びに来る。
 みんなはわたしとイチが付き合ってると思っているのかもしれない。
 だけどそうじゃない。

 体育館の舞台袖にトイレがある。めったに使われることはない。そこにトイレがあるって知らない生徒も結構いるんじゃないかと思う。

 イチはそこを使う。
 男女兼用の個室。

 このトイレが不人気なのはいくつか理由があるけど、そのひとつは幽霊伝説。

 頭がない女の子が自分の頭をバスケットボールみたいにドリブルしながら現れるというやつ。
 このトイレに入っているとそのドリブルの音がドアの外から近付いてきて、用を足して扉を開けると・・・・・・という。
 まあ、ありがちなやつ。

 イチはおしっこしながら怖くてしかたがないらしい。
 だからわたしは舞台の端っこに座って歌を歌ってあげる。

 さすがにイチのおしっこの音を聞いちゃうのは気まずいし。でもイチにとって、わたしが近くにいるって分かるように。


「凪ちゃんの髪、触っていい?」
 イチは本を置いた。
 秀一郎という割と男らしい名前はイチの好むところではなかった。

 イチはわたしの髪を編んでくれる。
 今日はフィッシュボーンという凝った編み込み。イチの指先がわたしの髪に触れ、地肌に触れる。

 舞台の端っこに寄せられた緞帳の裏。
 ちょっと埃っぽい。だけどそこが、わたしとイチのお昼休みの指定席。

 誰にも見えない。

「凪ちゃん。夏休みになったら、一緒に東京に遊びに行ってくれない?」

 イチの趣味は古本屋さん巡りだけじゃない。
 レトロな喫茶店とかが好き。レース編みのカーテンがかかってるようなところ。
 お洒落なカフェも好き。
 かわいいのが好き。

 それから。

「ね。凪ちゃん。凪ちゃんのスカート穿かせて」

 まずイチが制服のズボンを脱ぐ。
 ちょっと間抜けな格好になるの。ブレザーの下からイチの生脚が見えちゃう。
 白くてわたしよりよっぽど綺麗な脚。

 わたしは自分のスカートの下にイチのズボンを穿いてからスカートを脱ぐ。
 イチの体温でズボンがほんのり温かい。

 イチはわたしのスカートを穿く。
 プリーツスカートをふわっとさせて、嬉しそうに歩く。
 緞帳の裏のわずかな空間だけがイチのファッションショーの舞台。

 わたしはそれを見ている。床に座り込んだまま見ている。
 イチの編んでくれた髪に触る。右手で。
 わたしの左手は左の太腿をぐっとおさえる。
 左手に、制服のズボンの生地のざらっとした感触。
 イチのズボンを穿くとお腹の底がとろっとして変な気持ち。


 イチが脚のレーザー脱毛のお金をどうやって手に入れたのか知らない。
 イチは成績優秀で、バイトなんかしているヒマがあるようには思えない。

 イチには夢がある。イチは将来、精神科のお医者さんになりたい。

 そして、もうひとつ夢がある。

 夏休みになったら、わたしとお揃いのワンピースを着て東京に遊びに行きたいんだって。

「これ、どうかな?」
 イチがスマートフォンで通販サイトを開く。
 見せてくれたのは真っ白なワンピース。ベビードールっぽい胸元の切り替えの、ミニ丈のワンピース。
 イチがこれを着たら妖精みたいになるだろうな。

「わたしには丈が短すぎるよ」
 そうかなあ、イチはにっこり笑う。
「凪ちゃんきっと似合うよ。おてんばな花嫁さんみたいだよ。きっと」

 イチがホルモン剤を飲み始めたことをわたしは知っている。
 十八才まで待てないって。
 そのお金と薬をどこで手に入れているのか、わたしには分からない。

 イチはわたしにスカートを返し、わたしはイチにズボンを返した。
 変身の時間はすぐ終わっちゃう。
 スカートにはイチの体温がほんのり移っている。
 生温かいスカートは、イチに抱っこされてるみたいな、後ろめたいのにやめられない、みたいな気持ちになる。

 ズボンを穿いたイチが振り向く。
 女の子より女の子らしい脚で、ちょっと骨張った男の子らしい肩で、さらさらの髪に赤い唇。

 ありのままがいい、そのままの君が好き。

 よくある歌の、よくある歌詞。よく出てくる、そういうフレーズ。
 でもイチはそうじゃない。
 ありのままの自分なんてイチには耐えられない。

 ズボンを穿いたイチが立ち上がる。わたしの手を引いて起こしてくれる。
 イチの細く長い指。意外とごつごつした手首。

 ズボンを穿いてわたしの手を引いてくれるイチが好き。男の子じゃないみたいにきれいな、男の子のイチが好き。
 教室に帰りながらイチがそっとわたしの耳に囁く。

 表参道の坂道を一緒に走りたいんだって。だだだだって。
 白いワンピース着て花束を持って手を繋いで走ろう。花びらが飛び散って、笑い声が空まで響いて、天使が鐘を鳴らすよ。

 名残惜しそうに、イチは自分の教室に入って行く。

 わたしは手を振る。

 わたしは考えてる。
 ありのままって、どういうこと?
 人間の中身って、どこからどこまで?

 イチがとなりの教室に入って行く。
 細かい格子柄のズボンの裾。
 グレーのブレザー。さらさらの髪。
 汗ひとつかかなそうな、涼しげなうなじ。

 イチの、女の子みたいに赤い唇が好き。
 でも、女の子になったイチとキスがしたいわけじゃない。

 イチの編んでくれた髪をほどく。
 十七才は掻きむしる。
 花束もスカートも肌も。
 引き剥がしてもその下は白じゃない。

 わたしは手を振る。
 毎日いっしょうけんめい女の子に近付いていくイチ。毎日遠ざかっていく大好きな男の子。

 わたしは手を振る。

《 完 》

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