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放課後の教室、又は自室

 私はそれが広がっていくのをただ、眺めていた。
 高潔な白色が顔を覗かせ、褐色肌の上では一際目立っている。内に留まっているメランコリーが抑圧と鬩ぎ合う。それでも、一見しただけでは、私には唯の白に過ぎないように思える。いくら真摯に見つめても、抓っても,引っ張っても私の目の前には延々と静止した風景しかなかった。何か変化が起きるまで、私はそれを見ていることしかできなかった。窓の外で燕が旋回している。次第により大きな円を描いて、やがて枠外へと飛んでいった。
 次第に赤い液体がじんわりと溢れ出してくる。点々と現れるそれはまるで宝石のようだが、こんな暗がりの中にポツンと存在しているのは分不相応で滑稽にすら感じてしまう。ドロッとした液体は肌を伝うことなくベッタリと絡みつき、やがて赤黒い塊へと変化していく。私が知っている血液はもっとさらさらとしていて鮮やかだったはずだが、案外、血というものはこう汚らしいものなのかもしれない。
 一センチ右。次は、〇・五センチ。傷が重ならないよう、剃刀をずらしながら引きつづける。もっと、もっと切っていいよ。深く切るとね、そこが換気口みたいになってくれる気がするんだよね。汚いものはここから出てってくれるはず。チサは、仰向けのままぼそりと呟いた。チサの口から放たれた言葉は宙ぶらりんになることなく、しっかりと私のところまで歩み寄ってくる。
 血管が浮き彫りになっている箇所に刃がどんどん迫り、勢いをつけようとして深く押し込んだ。突出した筋肉に抵抗されて刃はなかなか定まらない。それとも、これは腱なのではないだろうか。もう片方の手でそこを掴み揉んでみるとコリコリしていて、やっぱり切りにくいわけだと納得する。
 チサは焦れったくなったのか、反対の腕をばたばたと動かした。申し訳なさを感じつつも少し慌てて刃を引くと、剃刀は脱線した列車のように傾倒して、刃の角だけが弧を描くようにチサの腕を撫でた。脳内でいつか列車の錆びられた金属が軌条と火花を散らし合うキッーという甲高い音が轟く。剃刀が傷たちを横断して、まずいと思った。一度切ったっところに刃が触れるのというは、案外ピリつくらしい。チサは痛いなどとは言わずひたすらに天井を見つめるばかりだったが、血液はさっきよりも淡々と肌を這っていた。
 机に、血が流れた。傷口からとめどなく溢れ、やがて机を侵食した。ティッシュで傷口を押さえてあげると憂苦を吸いあげたかのように、けたたましく柔らかさを失くした。
 あまりの忌々しさに即座に手放したくなる。形容し難い赤色だった。部屋の隅にはゴミ箱が置かれているが、それっきりだった。ビニールがセットされていないゴミ箱に血で湿ったティッシュを放るのはいかがなものかと思ったが、そこにはもっと大きい負が渦を巻いていた。

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