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消費し消費される経済から、豊かさを稼ぎ出す経済へ

この連載は、「ポスト資本主義の住まいをつくる」と題し、BIOTOPE佐宗邦威とVUILD秋吉浩気がオブニバス連載の形で全6回で綴り、問いかけていくものです。

各回の内容は、以下の通りです。

第1回:内省編(佐宗)第2回:経済編(佐宗)、第3回:運動編(秋吉)、第4回:実践編(秋吉)、第5回:教育編(佐宗)、第6回:提案編(秋吉)

今回はその2回目「経済編」。BIOTOPE佐宗が新常態の経済について執筆します。

1.新型コロナウイルスが炙り出した、都市生活への疑い

前回、新型コロナウイルスによる外出自粛生活で様々な価値観のリセットが行われたと書いた。一言で言うと、豊かさの物差しが、人からの「すごい」という称賛を大事にするOutside-inの視点から、自分の「いい!」を大事にする内面に根ざしたInside-outへシフトしたのだ。こういった価値観の変化が起こりつつあることは、薄々みんな感じていた。しかし、コロナによる生活のリセットが、惰性の力を断ち切り、あるべき変化を少しずつ生み始めている。

この不可逆的な変化が一時的なものではなく継続し続けるとすれば、僕らの社会における経済のカタチはどのように変わりうるのだろうか? この問いを思考実験として考えてみたい。

現代では経済というと、貨幣をスケールにした経済を考えがちだ。しかし、エコノミーの語源であるオイコノモスは、「オイコス(家)」と「ノモス(秩序・管理)」を意味するという。もともとの意味に立ち返れば、経済学とは物やサービスをうまく分配し、うまく巡らせるためのものなのだ。つまり、経済の仕組みとは、様々な人のニーズやウォンツを組み合わせて、取引を通じて最適な配分をする仕組みを考えるものであるはず。ならば、人のニーズやウォンツが変われば、形も変わっていくはずではないか。

コロナの外出自粛期間に、人々は今までやらなかったさまざまな行動をとった。それを分類すると以下のようになる。

1.何かを生み出すこと:家庭菜園、編み物・マスクの自作などの手芸、家でのDIY、料理
2.自己を表現すること:オンラインイベントの開催、YouTubeによる配信
3.家族やご近所とつながること:家族とすごすこと、子供とすごすこと、近所のスーパーでの買い物
4.自然と親しむこと:公園での散歩、Open Airの庭で友人とランチ

社会学の泰斗、見田宗介先生は、近著『現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと』において、社会が成熟化すると、人は特別ではない日常の楽しみを求めるようになると主張する。そのために大事になる営みは、人と繋がること、自然と触れ合うこと、文化をつくることだと喝破している。

人と繋がり、自然と触れ合うことでリラックスすればオキシトシンやセロトニン等が分泌される。何かを創造することでは、ドーパミンが分泌される。地に足のついたローキーの楽しみ方だと言えよう。そしてそれはWell-beingの状態をもたらす営みだとも言える。また、創造したり表現したりする営みは、自分を見つめることにつながり、生きる実感をもたらすものでもある。この「生への実感を感じられるものごと」こそ、Inside-outの価値観にシフトした僕らが求めるものになるのではないかと思う。

この兆しは、YouTuberの活躍やアートへの関心の高まりなどを見る限り、コロナの前からすでにあったように思う。では、こういった変化があるにもかかわらず、多くの人はなぜこれらの活動に今までなぜ時間を使えなかったのだろうか?

それは、他のことで忙しいからだ。仕事、ショッピング、外食をする、遊園地やイベントに行く。コロナ以前の日常では、こういった営みで忙しかったのだ。こういったコロナ以前の日常の営みは、欲望を刺激しアドレナリンを放出していくハイキーな活動と言える。これらはすべて、「経済を回す」活動だ。


コロナ中の活動がセロトニン優位の活動だったとすると、コロナ前の日常の営みは、欲望を刺激しアドレナリンを放出していくハイキーな活動と言える。いわゆる、「経済を回す」活動だ。

つまり僕らは、経済を回すために24時間という限られた時間を使ってお金を稼ぎ、使う。1日は24時間しかないから、貨幣の交換によるハイキーな活動は、自分自身を充足させるローキー活動には、時間の配分という意味では、トレードオフが発生する。
この自分自身を充足させる時間と、経済を回すための時間にどういう優先順位をつけるのか? どう両立させるのか?

2.都市から地方に本当に人は流れないのか?

今、「都市に住むか? 地方に住むか?」という議論が起こっている。議論は始まってはいるが、地方に行くのは不便だし、実際には軽井沢や逗子などの近郊の半リゾート地への移住や二拠点居住が進むだろうというのがいったんの議論の落ち着き先のように見える。逗子や鎌倉は今移住希望者が殺到していて物件がなかなか見つからないらしい。しかし僕は、ナレッジワーカーが都市から自然と余白を求めて住む場所を変える動きは長期的な潮流になると思う。それは、上記で書いたInside-out型の、生を実感できる営みを重視する人が増えていくと思うからだ。

世界人口のうち都市に住むのは52.1%。しかし、日本では91.3%もの人が都市に住むと言われている。世界でも稀に見る都市化が進む国、それが日本だ。都市は、便利で、仕事がある。貨幣に換算できる「豊かさ」を稼ぐ意味では、もっとも時間効率が良い。しかし一方で都市の暮らしは、ストレスが溜まるし、孤独だし、自然を感じられない。そして何より、都市には自分を表現する余白が少ない

アーティストを始めとした感度の高いクリエイティブ層では、すでに表現の場を地方の、面白い人が集まる街に移す動きが起こっていた。それは、自己表現に目覚め、営みとする人が、自分らしさを表現できる方法が限られており、表現が可能なキャンバスもない都市に住むことはデメリットにすらなると気づいたからだろう。今後、多くの人が、クリエイティブ層と同様に内面性の表現を大事にしていくと、当然住まい方にも影響は出てくるはずだ。

歴史的に、人は常に仕事場の近くに住んできた。多くの人が農業をやっていた時代には、田畑の隣に住むのが便利だったから、人々は地方に分散して住んでいた。産業社会になると、いわゆる「工場城下町」の近くに多くの人が住むようになった。そして、産業化が進むと、あらゆる商品が都市に集まり、その商品をやりとりする市場が生まれ、市場に人が集まり、消費地である市場の近くにオフィスが集積するようになった。

しかし今、コロナでテレワークが進んだことにより、デジタル上のやりとりである程度完結する仕事では、PCさえあればどこでもできるということが社会に認められた。一方で、こういった働き方のできるナレッジワーカーは、常にオンラインで過度な情報処理を行うことになり、疲れている。結果として、自然の近くに住み、すぐに精神をリラックスできる環境に身を置く方が、生産性は高くなる。内面の幸せを素直に追求する、かつどこでも仕事ができるナレッジワーカーが、自然の近くの環境に住まいを置きたくなるのは理にかなっているように思う。

3.ラットレース的資本主義人生ゲームへの入り口とは?

しかし、現実はそんな簡単なものではない。1で書いたように、僕らは、お金を回すことで経済が周り、仕事が生まれる社会に住んでいて、時間の使い方はトレードオフになりやすいからだ。そこで、元を辿って、今までの資本主義による経済がどうやって回っているのか、その仕組みを考え、何かハックできるポイントはないか考えてみたい。

資本主義と都市化は切っても切り離せない。近代の資本主義は、工場で物を集中して大規模に作り、都市に人を集積させ、市場で販売することで、富を蓄積するという仕組みによって回っている。この仕組みの中では、仕事をするのも、仕事を頼むのも、誰かの仕事の成果物を購入するのも、都市や都市周辺に住むほうが効率的だ。この資本主義経済の流れの、最初のエンジンの役割を果たしているのが、不動産を担保に融資を行う金融の仕組みだ。

多くの国では融資を受けるときに不動産を担保にする。不動産の価格が上昇すれば借りられる融資額が大きくなり、都市の不動産需要が増せば価格は上昇するため、都市には貨幣が集まって様々な産業が生まれる。

都市においての土地の価格の上昇はその国の経済力の現れでもあり、政府も都市の価格上昇を後押しする政策をとり、ディベロッパーはタワーマンションの素敵な生活を演出して人々の欲望を掻き立てる。(そして、購入者はローンを返済するために、お金を稼がなければならなくなる。)

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このサイクルを早回しするために、株式会社という仕組みによって事業の拡大スピードをあげるアクセルを踏み、国際金融によってレバレッジをかける。それによって、元々回っていた経済を何倍・何十倍にも回して生きているのが僕らだ。

この仕組みは、物質的な豊かさが行き渡る過程においては非常にうまく回っていた。しかし、その性質上自然に、この仕組みはラットレース的にスピードを上げ続けるようになる。その中で、僕らは時間の余白がなくて自分の内面の幸せを味わえなくなった。その結果起こったのが、気候変動だ。地球全体としてタコが自分の足を食べるがごとく、僕らは自分たちの住む環境を変えてしまった。これが、僕らが生きる現代の資本主義社会のリアリティだ。

すでにこのスピードを上げ続ける暮らしに疲れている人も多いだろう。しかし、僕らはなかなかこの仕組みから逃れられない。なぜだろう? おそらく、若いうちはこの流れに飲み込まれないように生活することもできる。しかし、この前提が変わるのが、子供が生まれ、家を購入する瞬間だ

現在の日本で、子供を育てようとすると、賃貸では住居コスト高になる。そして、マンションや持ち家ではないと生活に余裕がなくなるため、みんな住宅ローンを購入し35年間借金を返し続ける約束をする。

この瞬間だ! 僕らが、資本主義が成り立たせている無限のラットレースに飲み込まれるのは。この先は、住宅ローンを返済するために、一生をかけてお金を稼ぎ続ける人生ゲームがスタートする。

僕らが生きる資本主義社会のエンジンは、不動産の価値上昇により価値を裏付けられた金融システムだ。僕らは不動産や家の購入によってそのシステムに参画しているのだ。

4.豊かさを稼ぐ経済とは?

1.何かを生み出すこと、 2.自己を表現すること、3.家族やご近所とつながること、4.自然と親しむこと。これらの楽しみは、VUILDの井上さん曰く、田舎での楽しみ方そのものだ。彼曰く、「田舎の生活は、何かを作り、それを交換することで豊かさを稼ぐような感覚がある」という。だから、コロナの外出自粛期間に、岡山県の粟倉町に住む彼が、都会の自粛生活を見て、田舎の暮らしと似ていると言ったのだろう。

田舎の暮らしでは、全ての活動を貨幣価値に換算しない方が良い。限定された地域の中で経済を回そうとすると、何度も付き合いを重ねる中で関係性が近くなっていく。そして、「お金なんて水臭い」「この間マッサージをしてもらったから大根を持ってきた」など、コミュニティの関係が育まれれば育まれるほど貨幣は介在しにくくなる。一方で、その過程では人のつながりという豊かさを得られる。自然を近くに過ごし、プロセスを味わう時間を過ごし、アトリエをもったり、公共スペースに自分の表現をできるキャンバスをもったりする。これらは、各プロセスを味わい、そこで生まれる精神的な豊かさを味わうような日々だ。これは、コロナで僕らが日常経験したケの豊かさであり、「豊かさを稼ぎ出す暮らし」なのだろう。

コロナによって人々が感じるようになった内面の「豊かさ」は、人によって価値基準が違い、比較が難しい精神的なものだ。それは紛れもなく貨幣経済では測れない見えない価値だ。外食の代わりに料理、服を買う代わりにWebサイト作り、飲み会の代わりにペットを飼ったり家庭菜園を行ったりするライフスタイルは、人と比較する必要がない豊かさで、そしてお金がかからない。これを突き詰めていくと、身近なアナログ経済圏では貨幣流通量が減り、貨幣は、世界中で繋がったデジタルの世界の共通価値を測るものにシフトしていく。こうなったときには、今の尺度でのGDPの数字は減少しそうである。コ僕らが等身大で求めている必要十分な幸せを満たそうとするために。

5.テクノロジー実装の加速の先にある経済とは?

コロナ禍によって確実に起こるもう一つの変化は、ITテクノロジーの社会実装、いわゆるDX(デジタルトランスフォーメーション)というやつだ。コロナによって、企業や行政のデジタル化は一気に進展せざるを得ない。そして、その結果、医療、教育、行政などあらゆるものがデジタル化する中で、「限界費用ゼロ社会」と呼ばれる社会の実現のスピードが早まる。限界費用ゼロ社会とは、コピー&ペーストのコストがゼロのデジタルの世界に社会が移行すればするほど、新たな価値を生み出すために必要なコストがゼロに近づいていくと言う世界だ。

今後、自動運転やドローンによってモビリティやロジスティクスの分野といった、経済の大きなパイをしめる産業分野に大規模にテクノロジーが実装されると、これらの産業が生み出していた貨幣経済的価値は減っていく。この流れによって、貨幣の流通量が大幅に減る未来がくると考えるのが自然だ。

VUILDに投資するMistletoeの孫泰蔵さんは、今回のワークショップでご一緒するなかで、以下のようなチャートを紹介してくれた。テクノロジーの進化の結果としての限界費用ゼロ社会への移行の際、最悪のシナリオは、「生活コストを減らさずに、収入だけが減っていく」ことだと言う。収入減少が確実な僕らにとって、目指すべき最良のシナリオは、「テクノロジーの進化によって、生活コストを大幅に減らす」未来だ。収入が減っても、自由に使える分のお金は手元に残るからだ。

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現状の生活支出の内訳を見てみると、全体の4割は、住居、車、保険、水道光熱費、通信費などの生活インフラ支出が占めている。僕らが目指すべきなのは、新たなテクノロジーのインフラによって生活コストがゼロに近くなり、誰もが無料で利用できる生活インフラが共通資本化され、貨幣ではない尺度で測られる経済による未来ではないだろうか。その新しい経済では、自分で物やサービスを作り、交換し、人のつながりという豊かさを得る、今の地方が持つ豊かさが重要になるはずだ。その社会では、生活インフラに関するサービスは、経済学者宇沢弘文の言う社会の共通資本=コモンズとなっていく。

ポスト資本主義の経済の回り方をあえて考えてみると。3層構造によって成り立つと思う。

1つ目は、コモンズとしての生活インフラだ。住まいや、車、通信などの生活インフラのコストは、テクノロジーによってコストを下げつつ、共通資本としてコモンズで運用される。これは、今までの公共事業メインのものに代わり、企業と自治体政府の半官半民による協業での投資、運営になるだろう。

2つ目は、コミュニティ経済圏だ。エネルギーや食、住まいづくりなど、自分たちが住まう上で必要なものは、太陽光、風力などの再生可能エネルギーや、テクノロジーを活用した自然農法などの分散型の農法で、自分たちで生み出す枠を増やし、(ご近所を中心とした)人と人の関係のなかで交換、おすそ分けしていくコミュニティ経済圏を作る。その中で、取引を通じて人の幸せを作っていく。

3つ目は、デジタル経済圏だ。デジタル上での知的資産の創造・共有を通じて自己表現を支援したり、文化的楽しみを世界中で広げていったりする、仕組みとしての経済圏だ。YouTubeや、メタバースなどの場での表現や、交換の機会をもっと増えていく。しかし、これは必ずしもデジタル上で完結する必要はなく、デジタルを起点に、リアルの世界に人を集めていくようなものも含めての経済圏になるだろう。

これらにいずれも重要なのは、個人個人の内面の満足を大事にする経済では、富の集積という定量的な結果ではなく、その時間の過ごし方=プロセスに一番楽しみや幸せが生まれることがより重視されるということだ。だから、GDPという結果指標を追い求め、プロセスを効率化すればするほど、生の実感、幸せの感覚は落ちていく。

大胆に言ってしまうと、これからもしかしたら僕らが直面するコロナ不況は、今までのシステムにおいての再配分の失敗であると同時に、一見一見減った貨幣経済的尺度での価値に囚われることなく、僕らがこれから必要十分だと思う幸せに基づいた暮らし方に対する経済の回し方を構築するチャンスでもあるのだと思う。グリーンニューディール、限界費用ゼロ、社会共通資本など、このヒントとなる概念はある。しかし、この思考実験が単なる絵空事としてのビジョンを越えたものになるためには、今の貨幣経済が依存するシステムを止めるために、生活コストの中で非常に大きな割合を示す「住まいのコスト」をゼロに近づけるチャレンジをしなければいけない。家賃の支払いや、土地取得、建築などにかかる費用はあまりにも大きいからだ。しかし、そんなことはそもそも可能なのだろうか?

「いかにして、テクノロジーの力も活用しながら、僕らの住まいづくりのコストをゼロに近づけていくか?」

この問いを実現性を高める上で、デジタルファブリケーションというテクノロジーをコモンズ的に活用することで、住まいを作るという可能性が浮かんでくる。

そこで、次回は、VUILDの秋吉くんにバトンタッチして、住まい方、文化に対して大きな影響を与える建築の視点から、新たな生活様式について考えてみたいと思う。

コロナ後に持続可能な社会を作るための経済学のカタチは、これから人類が答えを出していく大きな難題だと思う。経済学者の安田さんと一緒に考えた、「新常態の経済学を考える」についても、新たな経済の形を考えるきっかけになると思うのでもしご興味があれば見てみてほしい。

BIOTALK #2 : 『新常態の経済学を考える』 公開企画会議
with 大阪大学准教授・経済学者の安田洋祐さん

参考:連載第1回:内省編 コロナ後を生きる僕への手紙

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