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◎移住してからポッドキャストを聴くようになったワケ

離れて暮らすようになった僕らにとっての贅沢って何だろう?

軽井沢に移住してからさまざまな心境の変化があった。その中でも都会から離れて暮らすことで気づいた欠落の一つは人と深く繋がっていると実感したいという渇望だった。軽井沢で生活するようになってから、「無性に人の声が聞きたくなった」という変化があった。

東京に住んでいたときは、こうした感情を強く抱くことは全くなかった。なぜなら、都会では常にたくさんの人に囲まれているから。品川駅のコンコースを歩いて通勤をしていた頃は、人の流れの中で自分が部品のように感じていたこともあったし、SNSで人と繋がるようになって、多くの人と一緒にいるのが当たり前だった。だから、逆に人から距離をとりたくて、電車の中で目を瞑って瞑想をすることを習慣にしていた。

だが、軽井沢に拠点を移してからは、ポッドキャスト(音声コンテンツ)を聴く機会が圧倒的に増えた。軽井沢では車で移動することが多い。その際もこれまでだったら音楽をかけるところだが、ひたすらポッドキャストを聴いている。これは東京から軽井沢に移住してから始まった新しい習慣である。
なぜポッドキャストなのか? 自分が知っている人が話す声を聴いていると人の気配を感じられて、不思議と安心した気持ちになるからだ。音声コンテンツの特徴でもある「近くで誰かがおしゃべりしている」という感覚が心地よく、距離感もちょうどよい。友人がやっているスローメディアのLobsterr FMやコテンラジオなど、定期的にアップデートされている自分と波長の合うおしゃべりをかけながら、自分が誰かと一緒にいるかのような気持ちになる。
 
同じ音声メディアでもClubhouseやTwitterスペースは少し苦手だ。たとえば、大勢の人が参加するClubhouseやTwitterスペースはある意味、劇場型のメディアで緊張を強いられる面がある。一方、ポッドキャストは1人対1人、あるいは1人対2人、1人対3人といったパーソナルなメディアだ。Clubhouse のように100人対3人といった状況はどこか落ち着かない。
また、ポッドキャストではおしゃべりの内容もパーソナルな傾向がある。話し手の「実は俺、最近ウクライナのニュースを聞いてこんなことを考えてたんだよね」といった話を聞くと、「ああ、わかるなあ。自分だけが感じていたことじゃないだ。」と安心したりする。

リモート生活が当たり前になったポストコロナ社会は、家族以外ほとんどの人の内面が感じにくくなっているように思う。雑談の機会も減っているから、ますます人が何を思い、考えているのかが見えにくくなっている。だからこそ、人の強さや弱さ、感情や欲望、つまり人間の生の気配のようなものに触れたいという欲求が、移住をきっかけに自分の中で顕在化したのかもしれない。

地方移住というと、自然の中でキラキラとした生活をしている側面が注目を浴びがちなように思うが、実際には良いことばかりではない。自分が望むライフスタイルを実現しているように見えて憧れるかもしれないが、その半面、ひとり自分の道を歩むという孤独感とも隣り合わせである。都会の会社で働いているときは競争もあるけれど、「こうすれば、より素敵な生活だ」というライフスタイルの階段のようなものが見えていて、無意識に一歩一歩登って行こうとしていた。だが、都会や組織を離れて移住すると、ベンチマークもなくなる。移住によって物理的に人と距離ができるという面も当然あるが、ベンチマークがいなくなることで心理的な「寂しさ」を感じているともいえる。

地方に移住してから「SNSを始めた」「これまでよりも情報発信の頻度が増えた」というケースをときどき耳にするが、これも「寂しさ」に由来しているのかもしれない。実際、僕も移住する前からSNSはやっていていて、一時はあまり発信するのに億劫に感じていた時期があったけど、移住してからまた発信する頻度は増えているし、人の話をポッドキャストで聴くだけでなく、自分もおしゃべりを発信したいと思うようになった。

僕は人と「雑談」がしたいのだ。心理学的な面からいえば、「自分はこんなことを思っている」と開示するだけで、人はある程度心が癒やされ、寂しさも解消されるという。「仕事がしんどくて……」などと友人に話すと、心が軽くなったように感じるのもそのためだ。したがって、日常の雑談は、一種の自然なカウンセリング行為だったのだ。

以前は雑談の場で今の辛い心境を吐露することで、メンタルを正常に戻することができた。居酒屋で愚痴をこぼすのも、ある意味心の安定を保つ役割を果たしていたといえる。だが、コロナ禍をきっかけにそうした機会が奪われてしまった。弱った心が回復することなく、さらにふさぎ込んでしまう。今、そんな悪循環が起きているのではないだろうか。

そんな状況だからこそ、本音を語り、人に弱いところを見せられるような場が必要だ。特にリモートワークが中心の人は、本音を吐露するような機会を意識してつくらないと心が悲鳴を上げてしまう。
リモートワークのコミュニケーションでは、本音と建前のうち、建前しか表に出せない。どうしてもかしこまってしまい、強い姿しか見せられないのだ。

僕の場合、軽井沢に移住して余白ができたことで、東京にいたときよりストレスが減っているのは間違いない。それでも、ストレスがきれいさっぱりなくなるわけではない。愚痴をこぼさないとやっていられないほどではないが、むしろ寂しさを共有したい気持ちになる。

弱音を吐きたくても、それができる機会が少ない。そんな時代だからこそ、お互いの弱さを開示し合えるようなコミュニケーションが求められるのではないだろうか。たとえば、会社の上司であれば、オンラインでもいいので、意識して部下の本音を聞いてあげる。先に上司のほうから弱いところを開示すれば、部下も心を開く準備ができ、案外素直な気持ちを話してくれるものだ。僕も会社のメンバーに「最近イライラしているように見えるかもしれないけれど、実は自分の〇〇〇なところにコンプレックスを感じていて、きつい言葉になってしまったんだ。ごめんな」と打ち明けたところ、その部下は「すごく共感できました」と言ってくれて、本音で語り合うことができたこともある。

僕の会社では、打ち合わせの前に「チェックイン」「チェックアウト」というルールを設けている。打ち合わせの最初と最後に、メンバー同士が「今、自分の頭の中にあること」をとりあえず口に出すのだ。その内容から、「ちょっと悩んでいるのかな」などと察し、必要に応じて個別にワン・オン・ワンでフォローすることもある。

雑談がする機会が減り、本音を吐露する場が減っている今こそ、「寂しさ」を解消するような場を設けることが大事になっているのではないだろうか。

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