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なぜ働いていると本は読めないのにパズドラはできるのか【読書感想文】三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

パズドラはしたことがないので推測に過ぎないが、疲れていてもパズドラができるのは、それが現代技術の粋を集めた純粋な刺激と快楽だからだろう。甘いものは別腹、たらふく飲み食いしたあとの豚骨ラーメンみたいなものだ。

私がこの本を手に取ったのは、著者が導入部で紹介している映画『花束みたいな恋をした』を私も観て、同じ様な感想を持っていたからだが、そもそもこの映画を観ようと思ったのは、ネットで著者のその文章を偶然読んでいたからだったということに、この本を読み始めてから気付いた。

著者と同じような感想を抱いたのも、たぶんその文章を事前に読んでいたからだ。

読書時間を奪うネットのおすすめ記事で偶然著者の文章を読み、そこで取り上げられていた映画を観て、その映画をひとつのきっかけに書かれたこの本を手に取ったのは、偶然だろうか、必然だろうか。情報技術の恩恵を受けながら、とても狭いところでグルグルしてる感じでもある。

私がスマホを持つようになったのは割と最近の事だが、すでにかなりの時間をネットに奪われ、読書時間は減っている。

私は今はゲームはしないが(ファミコンに始まり、プレステ2で飽きた)、興味に応じて流てくるネットニュースやSNSに時間を割いてしまうのは、そこに著者の言う「ノイズ」がないからではなく、短時間で切り上げられる、と思っているからだと思う(往々にして長引いてしまうが)。敷居が低く、腰が軽いからだ。

読書、特に長編小説を読もうとすると、どうしても「よっこらしょ」という気合いがいる。

最低でも数10分は集中したい。事前に10分以上は集中できるという担保がほしい。

そのため、風呂、出勤前、通勤時、食後、休日などのための本はそれぞれ準備できるが、例えばトイレのための本はない(雑誌は読む)。このへんは職業柄もあって、特異なのかもしれない。

話を戻すが、著者は疲れてスマホばかり見てしまう行為を読書と両立しがたいものとし、パズドラを前者の象徴のように扱い、「偶発性(ノイズ)のない行為」としているが、それは極端な例であって(そうでないと本としておもしろくならないが)、ネットで得られる情報も、SNSも、(承知の上だと思うが)偶発性とノイズに満ちているし、逆に小説や漫画に予定調和を求める読者も少なくない。

『花束みたいな〜』のようなエンタメ映画に多くの人が身につまされるのは、情報化社会の労働状況や娯楽、格差社会、文化需要のあり方を描いているからではなくて、じつは古典的なテーマを扱っているからにすぎないのかもしれない。

ラジオやテレビの普及で、大好きだった小説を読まなくなった自分や恋人に失望するといった物語が昭和にあったとしてもおかしくはない(そういう小説がないかChatgptに聞いてみたら、ブラッドベリと、オーウェルと、マクルーハンと、マリシャ・ペシェルの『リーディング・ラディオ』を教えてくれた。最後のがなかなか見つからないので、「本当にあるの?原題教えて」と訊いてみると「申し訳ありませんが、存在しません。記憶に誤りがありました」とのこと。気になるなあ、リーディング・ラディオ)。

と、いろいろ反論めいたことを書いてしまったが、本書は今年の新書大賞に推してもいいくらいの、模範的な新書だと思う。

下調べも構成も論旨も過不足なく、硬すぎず柔らかすぎず、ときおり挿入されるくすぐりもまた絶妙だ(俵万智と村上龍へのツッコミが真骨頂か)。著者の語り口と真摯な姿勢も大きな魅力になっている。

なにより、この本を読むのは読書好きか、かつての読書好きくらいだろうから、読めば必ず何か言いたくなるはずだ。説得力はありすぎてもいけない。

私もまだまだ語り足りないが、読む人がいないから、このくらいにしておこう。

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